死刑/森達也

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

少なくとも死刑を合法の制度として残すこの日本に暮らす多くの人は、視界の端にこの死刑を認めながら、(存置か廃止かはともかくとして)目を逸らし続けている。
ならば僕は直視を試みる。できることなら触れてみる。さらに揺り動かす。 余計なお世話と思われるかもしれないけれど、でも実際に人が死ぬ。誰かが誰かを殺す。誰かが誰かに殺される。そんな事態に対して不感症でありたくない。
だからできるかぎりは直視して、そのうえで考えたい。死刑は不要なのか、あるいは必要なのか。人が人を殺すことの意味は何なのか。罪と罰、そして償いとは何なのか。
p012

この本を書きはじめる前、存置か廃止かでいえば、森達也さんは廃止派よりであったと思う。しかし、なぜ自分はそう思うのか、それを知るためには、もっと「死刑」というものを知らなければならない。この本はそうやって書きはじめらている。
私自身は、この本を読みはじめる前、死刑は廃止したほうがいいと思っていた。でもその理由は自分自身がその制度に関わりたくないという、利己的な感情にすぎず、日記にもそう書いたことがある。しかし読み進めるうちに、そう書くのはやはり、ただの言い訳だなと思った。
この本の最大のテーマは、好むと好まざるとに関わらず、もうすでに関わってしまっているのだから、知ってほしい/知るべきである、という主張だと思う。そしてインタビューは重ねられる。それぞれが死刑に密接に関わっている人たちの言葉だからこそ、読めば読むほどに迷う。存置か廃止か、知りもしないで傾けられることではない。
例えば、私は死刑が国家による、多数決による、殺人であるという点におそろしさを感じていたけれど、この本を読むうちに、その制度についてあまりにも知らないこと、確定死刑囚がどのような生活をしていて、いつ執行を言い渡されるのか、冤罪の多さ、遺族の思いもまた一通りではないという当たり前のことを、あまりにも知らずにいることのほうがずっと、もちろん比べることではないのだけど、こわいと思った。

価値や規範を可視化できない個々の苛立ちや恐れが、絶対的な正義の存在を希求する。人は規範に従いたい生きものなのだ。規範がないのなら無自覚に作り出す。そんな究極の規範が、この世界のどこかに存在していてほしい。人はそう願う。
これがこの国における死刑制度の本質だ。
p243

つまり、死刑の有用性ではなく、論理ではなく情緒が、死刑制度にまつわる水掛け論のゆえんである、と森達也さんは書く。
この本を読んでいると、廃止派の人も存置派の人も、死刑囚の人も冤罪元死刑囚の人も、刑務官として死刑を見てきた人も、被害者遺族の人も、それぞれ悩みながら言葉を発していて、そのほとんどの人は、帰結が異なるだけで同じことを言っているようにも思う。
本を読み終えても、廃止/存置のどちらが正しいのかなんてことはわからなかった。
ただ、それはやっぱりシステムではなく、それが誰であれ、一人ひとり違う。だからこそ、知れば、言葉をかわせば、その人を殺せないと思うのが情緒であってほしいと私は思う。