ほかの誰でもない

嫌われ松子の一生」の映画が公開されていた時、元上司が「ああいう映画は、ああ自分の人生はまだマシだって思うために見るのよ」と言っていて、驚いたことがある。自分は松子じゃなくてよかった、って? 想像してみてもいまいちピンとこなかった。もちろん、他人の状況をうらやましく思ったり、自分は恵まれているな、と思うことはある。ただ、それはその人になりたい、その人でなくてよかった、ということとはちょっと違うんじゃないか。自分が誰であるかは、オムレツを食べながら隣のカツカレーを見て、あっち食べてみたいとか思うみたいに選べるものではなくて、つまり、人生とは私そのものだ。私は私として他人の人生に(物語に)感情移入することができるけれど、私以外の誰かであることはできない。
そんなことをぐずぐずと考えながら同時に、人生というものに「価値」をつける言葉にひっかかる理由を、長いこと考えていた。

他人と自分を比較するということは、つまり自分を自分の外側に置くことでもある。あの人でなくてよかった、と思うのも、あの人がうらやましい、と思うのも、どちらも同じように、自分を蚊帳の外においている、ような気がする。それでも、視点は自分の側に立つだろう。だって自分が大切だし。

私は、誰もが「私」だからこそ、相手を尊重することが自分を尊重して欲しいと期待することに繋がる、と、思っていた。しかしそれは逆に言えば、名前のあるなしで、人は差別するものだ、ってことなのかもしれない。この「場」から自分を除外することはできないということを、どうにか言葉にしたいと思っていたけれど、それは私でありたいという「期待」を信じることの上にあったのかもしれない。

何がいいたいのかよくわからない文章になってしまったけど、私は、私のまま、もっとよくなりたいと思う。
そして、その「よさ」はは誰かと比べてではなく、ほかの誰でもない自分が判断することだ。