話すこと書くこと

電車の向かいの席で、2人の男の子がPSPやってた。モンハンかな。そういえば弟が「俺の PSP かわない?」とかいってたけど、あれどうしようかな。DS もやる暇ないのにむりか。でもゲームしたいなーとか、考えながらぼんやりしてたんだけど、ふと、その片方の男の子が
「あーくそ、死ねばいいのに」と言ったのにちょっと驚いて、顔をあげた。そのときに思ったこと。

面と向かって発された言葉の場合、相手の反応次第でその言葉の受け取られ方がある程度わかったりもする。その男の子も、たぶん冗談で「死ねばいいのに」を使ったんだと思うけど、友達の方はちょっとひっかかったみたいで、苦笑いしてスルーした。
でも、この苦笑いは、文字でやり取りするネットでは伝わらない。そのことにあらためて気付いたように思う。
「死ねばいいのに」というフレーズが、私は好きじゃないんだけど、そんでもネット上で使われるとき、それはたぶん本当に「死ねばいい」と思って言ってるんではないんだろうなと思う、ときのが多い、ような気がする。でも、言った本人がいくら「これはあくまでも冗談ですよー」というつもりでも、それは、書き手のことをある程度知っている人か、そのフレーズの使われ方をなんとなくでも知っている人にしか通用しないだろう。

話すように書く、ということに憧れたりもするけれど、でもやっぱり書くことと話すことは全然違う。その違いは、あの苦笑いのように、目の前の人の反応が見えるかどうか、にあるのかもしれない。
相手を想定しながら書く、ということも、やっぱり話すこととは違って、
つまり書かれた言葉は、自分が想定しているところ以外にも届く可能性がある。そして、そのほとんどの反応は見えないのだということが、書くことの怖さだと思った。いつどこで誰がどんな風に自分の言葉を受け取るのかわからない。ネットに文章を公開するというのはそういうことなのだ。
とはいえ、きつい物言いや毒舌を読むのが楽しいこともある。正直に思ったままを書きたいこともあるし、まったく個人的なことを書いたつもりが誤解されてしまうこともあるだろう。言葉は意図した通りに伝わることのほうが難しい。
でもだからこそ、何かを書きたいと思う時は、できるだけその怖さのことを忘れないようにしたいと思う。
とはいえ、こうして文章を書きながら一番に考えてしまうのは、自分は何が書きたいのだろう、ということだ。それは、書く時に目の前にあるのが、自分の反応だからなのかもしれない。そして、それを正確に推し量ろうとするのもまた難しいので、思い付いたことから片っ端に、話すように書いてみたい、と思ったりもする。そうして出てきたものを見てみたい。そのとき自分はどんな顔するんだろうか。