ドーナツの穴

ドーナツが食べたい気分だった。でも朝から降り続いている雨はやむ気配もなく、ドーナツを食べるためだけに出かけるには億劫だった。そこで、とりあえずドーナツのことを考えてみることにした。
いま私が食べたいのは、ぎっしりした生地で、揚げたてで、サクッとしているあの手作りっぽいやつだ。もちろん真ん中に穴の空いている、ドーナツらしいドーナツ。そしてその穴のことを考えていたときに、久しぶりに思い出したのがこの文章のことだった。

しかしまあ,これはどうでもいいことだ。ドーナツの穴と同じことだ。ドーナツの穴を空白として捉えるか,あるいは存在として捉えるかはあくまで形而上的な問題であって,それでドーナツの味が少しなりとも変わるわけではないのだ。
羊をめぐる冒険」/村上春樹

形而上ってのがどういう意味かは未だによくわからないけれど、つまりドーナツの穴はあるのかないのか、って考えることが形而上的な問題なのだろう。
しかし、それでドーナツの味が変わるわけではないにしろ、ドーナツの穴は、ドーナツがあることによって初めて「ない」ものとして「ある」。ドーナツがなくなったら、穴もまた、なくなるのだろうか、と問うことはできるけれど、はじめからドーナツがなければ、ドーナツの穴もまたないままだ。
それは私の意識についても言える。私の意識もまた、私があることによってはじめてあるもののはずだ。そうやって考えていくと、ほとんどのものは「ある」ところからはじまっていて、そもそもの最初には「ない」があったのかどうか(って変な言葉だけど)、よく分からなくなる。
でも、私がなくなったら意識もまたなくなるのだろうか、と問うことはできるかもしれない。一度、あってしまったものは、なくなった後にも完全にはなくならないんじゃないかって気がする。ドーナツを食べ続ければ、いつしかそこがドーナツの穴に満たされる…なんてことは想像に過ぎないにしろ、それににたようなことはあるんじゃないか。
言葉で輪郭をとることで、ないものを浮かびあがらせることはできるけれど、それはもう輪郭をとった時点であるものになる。ないものはあるのか。とか、考えてたら空腹がまぎれるかと思ったけどまぎれなかったので納豆チャーハンつくって食べた。ないもののことを考えるより、あるもので何か作った方がとりあえず満腹にはなるよねという話です。