眠気/カラフル/仕組み

盆休みが終わってから、毎日のぼんやり具合に拍車がかかっている。砂に埋まりながら、じょうろで水をかけられているみたいな重い眠気を前に、かろうじて体を持ち上げて過ごしつつ、日が落ちてからやっと本調子になるというのは、これもまた夏ばてなのだろうか。
なのだろうか、なんて真面目な顔して考えてるふりしつつ、夏だーいすきとか言っちゃったりするのはやっぱり、金曜日のビールと、週末の楽しみ。

それは去年も一昨年も変わらないはずなのに、昼下がりの電車の中でふと、今は今だけ、という言葉の意味がわかったような気分になる。似たような行動を繰り返していても、組み合わさった要素がまるで同じになることはないし、これが明日もある保証はないんだから、だったら、という部分で「カラフル」は、自分を外側から見れば大抵のことは乗り切れる、という視点を提示する物語だったとも思う。
正直なところ、そのたとえとして描かれる物語自体には、少し違和感を感じたものの、ささいなやりとりが主人公にとって「特別」になる瞬間を境に、視点は「自分」の中に引き戻され、だからこそままならないのだけど、それはけして振り出しに戻ったわけではない。だよねたぶん、という余韻はとても心に残った。

なんて、あれこれ考えつつ、ほんのちょっとのことであっという間に元気になったりする、自分の仕組みはいつまでもよくわからないなーと、すっかり大人になった今も思います。