「PK」/伊坂幸太郎(群像201105号)

twitterでモーニング編集部の方が感想を書かれているのを読んで*1、買って読みました。読んでよかった。

群像 2011年 05月号 [雑誌]

群像 2011年 05月号 [雑誌]

伊坂幸太郎さんは、出版されているもの全てではないものの、自分が新刊を追いかけている数少ない作家のひとりだし、たぶんとても好きなんだと思う。
でも、好きと言い切るのもちょっと違う気がするのは、正直にいって、たぶん『フィッシュストーリー』くらいからの作品は、好きな作品、というわけではないからだ。『オー!ファーザー』のあとがきには『ゴールデンスランパー』からが第二部、とあったけれど、個人的には『終末のフール』が区切りだったような気がしていて、それは『終末のフール』までの作品は確かに好きだったからでもある。
ただ、そんなことを言いつつも新作を手にとるのは、伊坂幸太郎さんの小説にある誠実さを、自分が勝手に信頼しているからだと思う。
まったく異なるお話を書いていても、その作品には書かれた時期を通じて、何度も繰り返し描かれるテーマがある。それに簡単に結論をつけるのではなく、作者自身が考え続けていることが作品を通して伝わってくる。そのことを私は心強く思うし、1つの作品だけでなく、作品を続けて読みたいと思う理由にもなっている。
そしてこの「PK」はそのテーマのひとつに、ある決着をつけたお話だ、と感じました。

物語は3つの時間軸を行き来しながら描かれる“勇気とはなにか”という物語だ。読みながらまず思い浮かべたのは『魔王』に同時収録されていた「呼吸」のラストシーン*2だった。そこで描かれていた“圧倒的なものに流されるのではなく、自分の中の倫理を信じて行動することについて”主人公が語る場面に、私はえらく感銘を受けたのだけど、
この「PK」で、登場人物のひとりである小説家が抱えている不安は、その倫理を信じることの難しさについてでもあった。

彼が心配しているのは、ミサイルが落ちて物理的な被害が出ることや、大地震によって家や財産を失うことではなかった。もちろんそのことも恐ろしかったが、それ以上に、社会の秩序が失われることが、守ってきた法律や道徳が、実は張りぼてに過ぎない、と露になることが、恐かった。

この小説は、3月11日の地震より前に書かれたものというのは読む前に知っていた。しかし、私はこの部分を読んで自分が3月末に考えて、日記に書いた「ひとはおおむね、相手に信頼されようと振舞うことを自分は前提にしていたい」*3ということはこのような不安からきたものだったのかもしれない、と思った。思ってちょっとぞっとした。
それでこの物語がどうなるか、というのは書かないけれど、私は作者がいまだにこの問題について考え続けているということを心強く感じたし、やっぱりこれからも伊坂幸太郎さんの小説を読みたい、と思った。
…というテーマについての話を抜きにしても、3つの時間軸を行き来しながらラストそれが実を結ぶ構成は伊坂幸太郎小説ならではの鮮やかさだったし、小説としてもとても面白く読みました。
この短編を、今読んでよかったなと思います。
特に気に入った台詞を以下にメモするけれど、ここは大事なので畳んでおきます。

「(略)たとえば、未来は素晴らしい、と子供に教えるのと、未来は暗い、と正直に教えるのとではどちらがいいのか」
「未来が明るい、と断定するのも無責任かもしれません」
「もしこれが、明日の天気の話であれば、無責任かもしれない。天気は、人が何を考えようと、何をしようと変わらないからだ。明日の天気のことは正確に伝えて、その準備をする必要がある。ただ、未来の状態を作るのは、人だ。もっと言えば、人の感情かもしれない。未来が明るくなるのか、暗くなるのかは、まだ今の時点では決まっていないんだ。様々な人間の感情が積み重なって、世の中の方向性は変わってくる。となれば」
(略)
「子供の頃の私はやっぱり楽しみだったよ。二十年後や三十年後が。期待していたし、わくわくしていた。今の子供たちはどうなんだろう」
「どう、と言いますと」
「二十年後のことを考えた時、わくわくしているのか?」