「マイ・バック・ページ」

監督:山下敦弘
原作は未読なのであくまでも映画を見た感想になるのだけど、この物語で唯一どう捉えれば良いのかわからなかったのは松山ケンイチ演じる「梅山」という人物についてだった。

週刊誌記者である主人公、沢田の視点で描かれる60年代末から70年代初頭にかけての物語は、彼がドヤ街で潜入捜査をしている場面から始まる。やがて社に戻った沢田は、彼らに対して罪悪感のようなものを感じたと告白し、上司に「センチメンタルだ」と切り捨てられる。
その後、先輩記者の手引きで、指名手配中の東大全共闘議長を全共闘結成大会へと送り届ける役目を果たすことになった彼の目に浮かぶのは、何らかの熱をもって活動している者に対する憧れだったと思う。
対する「梅山」は日本大学の学生で研究会を主宰している男だ。しかし最初の登場シーンとなる討論の場で彼は同じ大学の生徒に「君はなにがしたいんだ?」と問われて答えられず「君は敵か?」と逆ギレし、すっかりやり込められている(ように私は見えた)。そのように「梅山」は最初から「活動家」にはなれなそうな空気を身にまとっている。
しかし「梅山」自身のタレコミによって先輩とともに取材の場に赴いた沢田は、活動家らしからぬ繊細さで銀河鉄道が好きと語ったりギターをひいてみせたりする「梅山」の魅力に引き込まれてしまうのだ。

ここから先はネタバレになってしまうと思うのだけど、

沢田が梅山に惹かれたのは、梅山のハッタリが上手かったからだろうか。それとも沢田が梅山に自身を投影したからだろうか。
原作を読んでいたらまた印象は違うのかもしれないけれど、私は後者だと思った。沢田の先輩記者が一発で「あいつは偽者だ」と見抜いているように、梅山のハッタリはあまりうまいものではないように感じたからだ。
梅山の恋人が、大学内のバリケード前に立っているシーンがある。彼女の脇を笑顔の生徒たちが通りすぎていく。彼らはバリケードに見向きもしない。それがもう終わろうとしていることが一場面でわかる。しかし彼女はそのまま、ベンチでまつ梅山の元へ向かう。その様子を見ていると、彼女は梅山に「革命」ができるとは考えていなかったのかもしれないなと思えた。
そして梅山もまた、自身をあっさり信じてしまった沢田の存在によって、「何者かである」自分を続けてしまったのではないだろうか。「事件」の実行シーンにしたって、梅山は記事のことしか考えていない。

梅山が、自身の起こした事件について語りながら「三島由紀夫に追いついた」と語ったとき、沢田はその矛盾に気づいたにもかかわらず、ずるずると梅山の肩を持ち窮地に陥ってしまう。しかし、それはすでに沢田自身のプライドの問題になってしまっている。そこにずっと見過ごされていたものがあったことに気づいてやっと、あの自衛官がなくなるまでの長いショットの意味が立ち上がり、あらためてよく考えられた映画だと感じた。

しかしそこまではあくまでも梅山対沢田の物語であり映画はもう少し続く。
ラストシーン、沢田はある人物と再会し、そこでやっと、自らのセンチメンタルが傲慢なものであったことに思い至ったのではないだろうか。だとすれば、物語の締めくくりとしては同じく妻夫木聡が演じた「ジョゼと虎と魚たち」のラストシーンと、場面としても意味合いとしても重なっているように思った。