私の頭の中の8月

蝉の声がして、雨がやんだことを知る。窓を開けると、蝉の声が鈴虫の声に聞こえるような、ひんやりした空気が手に触れ、9月が終わるんだっけ、いやまだ8月か。なんだか8月っぽくないけど、と、頭の中の日付を行き来しつつ私の中のこの「8月」はいつの8月を基準としているのだろうかと考える。
緑色のカーペットが黄緑に見える四角。庭に置かれた丸いプールの、端を押し下げて流れ出す水、ギュッという手の感触と反動。白いシャツ、クリーム色のカーテン、登校日の寄り道、炭酸。濃い影とこぼしたコーラのしみ、白くて大きな雲。ヒグラシと大きな夕焼けの赤、バスの発車する音、ビー。夜になる前の薄暗い車内、花火の音、歩道橋にあつまる人の山。黒に赤を溶かしたような夜の底から鈴虫の鳴く声が聞こえる。ビールの入ったふやふやの紙コップ、ピンク色のビーサン、砂の上は暑くて歩けない。
「8月」という言葉とともに思い浮かぶ風景は何層にも重なっていて、きっと思い返すたびに違う色だ。今思い浮かべるのはプールの底の水色。息をとめてもぐるときのつんとする感じ。
大人になって、多くの当たり前も、二度とできなくなるときがくる、ということを知った気がするけれど、それを考えている今だって、いつかの自分が懐かしそうに見ているのだろう。「だから」○○しなければ、とは思わないんだけど、なんとなく手を振りたい気持ちにはなる。

温かい飲み物を頼むか、氷の入った飲み物にするかは、28度くらいに境目があるような気がする。ホットコーヒーを頼んで文庫本を開き、いつだったかの8月、同じ店の同じ席でこんな話をしたのを思い出す。
「暑い」「暑いね」「暑いって言うのを我慢するのもいやなくらい暑いね」「ね」
店内の明るさに、18時がもう暗いことを知る。蝉の声がして、雨がやんだ空に夕焼けが広がっていた。