「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」/村上春樹

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

今回の「多崎つくる」の物語は、羊3部作をはじめとする「僕」の物語と構造がとてもよく似ていると思う。
例えば、私が村上春樹の小説を好きだったのは、地面と自分の間に薄紙一枚の隔たりがあるような、体中が空っぽであるような何もなさを「そういうもの」として描いていたからのように思う。そして「僕」の物語は、そのような空洞を抱える人物が最終的に何らかの巡礼の旅(もしくは羊をめぐる冒険)にでて、どこかで世界が裏返る。そのような構造の作品が多かったと思う。
初期の作品は特に、その旅の過程の描写が魅力的で、読んでいてとても楽しかった。

しかし多崎つくるの抱える空洞は「そういうもの」ではなくとても具体的なものだ。求めているものは最初から明らかだし、謎はほぼ解き明かされる。そして、具体的に物語が進行していないときのつくるくんはほとんど性的なことを考えている。
村上春樹の小説について「セックスばっかり」と語られることは割と多い気がするけれど、自分が集中的に読んでいたのが中学生〜高校生の頃だったからか、そのようなイメージは前作までほぼ抱いていなかった。でも今回は明らかに性的な話題が繰り返されすぎな気がした。
それが気になったからなのかはわからないけれど、物語世界はずっと裏返らずに、現実的に解決されていったように感じられた。だから、つくるくんが彼女を求める気持ちを「そういうもの」とは捉えられず、なぜ彼女なのかは最後までいまいち腑に落ちなかった。
ただ『風の歌を聴け』にでてくる

高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。(略)僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。

この文章を受け継いでいるように感じられるセリフもあって(p324)、それがあの、つくるくんの告白につながっていると考えるなら、長い物語の大団円を見たような後味も、湧いてくるような気がします。

それから、まさに村上春樹節と言いたくなるようなフレーズがたくさん出てくるのに、未だに(ぎりぎりではある気はするけれど)かつての村上春樹の文章を真似している感じにならないのはさすがだなと思いました。あと出てくる女性のパターンがまるで『ノルウェイの森』なことに、作者の好みなのかな…とか考えちゃうのはやめたかった。