「FAKE」

森達也監督の新作、『FAKE』を見ました。
なんとドキュメンタリー映画を撮るのは「A2」以来15年ぶりとのこと。
書籍はコンスタントに出ている印象だったので、映画がそんなに久しぶりとは思わなかった。
たしか「世界が完全に思考停止する前に」*1の後書きに、次は今上天皇を撮りたい、と書いてあって楽しみにしていたのだけど、それはやはり難しかったということなのでしょうか。

『FAKE』の主題は佐村河内守さんとその奥さんでした。

テレビよりもインターネット、特にTwitterでニュースを知る事が多くなった今、佐村河内守さんの「事件」のような、所謂ワイドショー的に消費される話題の旬はそれほど長くないように思う。キャッチーな話題であれば拡散され、情報が入り乱れて、ネタになり、あっという間に古くなる。
もちろんテレビで長いこと同じ話題を取り上げ続けている(追いかけている)場合もあるけれど、
「古くなる」という感覚は厄介で、それは「そういうもの」としてそれ以上関心を向けない、ということに近い。
佐村河内守さんの話題にしても、まあ「そういうこと」なんだろうな、と結論づけて忘れ、でも〈ゴーストライター〉という言葉と同時に思い浮かべる程度になっている状態の人が多いのではないかと思う。私もそうでした。

でも「そういうこと」って何だろう。
『FAKE』は、「そういうこと」に含まれる、色々と曖昧な部分について、改めて考えるきっかけをくれるような作品でした。

佐村河内さんの話題に関していえば、
「佐村河内さんの耳は聞こえるのか」
「佐村河内さんは作曲ができるのか」
この2点について、「ひとつ嘘をついた人の言葉は全部嘘」という思い込みで「そういうこと」にしてしまっている人は少なくないのではないかと思う。
でも上の2点は、確認するのは難しいことではなさそうなのに、憶測のような情報しか目にしていない、すごく曖昧な部分だった。
個人的には、正直どっちでもいいと思っていたのでそういう特集があったとしても見逃している可能性はある。
でも、当たり前だけど、当事者にしてみればそれは自分の人生全体に関わることだし、「そういうこと」では片付けられない。
新垣さんがTVに出たり、ファッションモデルのようなことをやっているのを見る佐村河内守さんの複雑な表情を見て、まず「ああこれはどちらが悪でどちらが善、というような話ではないんだな」と感じました。

そして映画の中で、上の2点についての情報は存分に提示されます。
ただ、結論は出ない。
だから見終わって「えっどういうこと?」と声をあげている人もいました。
でも「ああ、そういうこと」という一言におさめないために、提示されたものを見て、自分で考えるということを思い出す、そのための映画だと感じました。

映画の中で、佐村河内さんの奥さんはお客さんがくるたびにケーキを出します。
テレビの人が来て、まあいかにも「佐村河内さんの味方ですよ」的なことを言って帰って行き、実際仕上がった番組は…という展開が続くのでだんだんと佐村河内さんの疑心暗鬼も仕方ないよなと思えてくるのですが、これも「そういうこと」のひとつだなと、こちらは緊張しながら見ている。
そんな油断してはいけないという気分で鑑賞しつつも、たまに毒気を抜かれるのが奥さんの出すケーキでした。
それから2人とともに暮らす、表情豊かな猫。

『A』と『A2』を見たときも、「そういうこと」になりかけていたオウムというものについて、そこには自分と地続きの場所にいる人々もいたのだということを、初めて知れたように思いました。
監督自身もインタビューで語っているし、「ドキュメンタリーは嘘をつく」にもあったけれど、「ドキュメンタリーと報道は違う」ので両論併記ではないし、『FAKE』も“真実はこうです”と告発するような映画ではない。
ただそこに映り込む「人柄」のようなものは確かにあって、
一度それを見てしまえば「どっちでもいい」とは思えなくなる。
そういう作品だなと思いました。


余談ですが、黒沢清監督の「クリーピー」はその逆サイドみたいな物語(映り込む人柄が信用できない話)だなと思ったので、『クリーピー』の感想も近々書きたい。