永い言い訳

小説家の男が、妻の死をきっかけにある父子と出会うお話。
先日会った友人に、絶対見た方がいいよ、と背中を押されて見に行ってきた。
夜にご飯の約束が入っている日の昼間に油断した気持ちで見に行ったのだけど、開始早々、気持ちの隙間のような部分にサックリ刺さってしまって、上映中はずっと涙が出て仕方なかった。
泣いた後に町を歩くと、なんだかフワフワした寄る辺ない気持ちになる。何度も道順を確認しながら、呆然とした気持ちのまま、おいしいご飯を食べにいった。

これはひとごとじゃない、と思った登場人物は2人いて、それは妻を亡くした主人公の幸夫と、同じく妻を亡くしたトラック運転手大宮の長男、真平くんだ。

幸夫は、かなり嫌な奴だと思う。疑り深くて、プライドが高くて、自分を守ることに精一杯で他者の痛みに鈍感。
妻を亡くした後もずっと「妻を亡くした男の振る舞い」を模索しているような表情をしている。小説家なので言葉はたくさん出てくるんだけれど、その言葉に感情は伴っていない。
ただ、彼自身が思い描く「正しい振る舞い」ができるわけではない、という程度に幸夫は正直者というか偽れない人でもある。

物語では、そんな幸夫が妻の友人(同じ事故で亡くなった)の子どもの面倒をみるようになる。
これは「親切な振る舞いをしたい」ということでもあったのだと思うけど、たぶん、幸夫にとって子どもとの関わりは「よく見られたい」という焦燥から解放される瞬間だったのではないだろうか。

真平くんは小学生ながらにとてもしっかりしていて、まだ幼い妹の面倒をよく見ている。
真平くんの、長男であるがゆえの責任感と、責任感が空回りして自ら辛くなってしまう感覚は、自分も4人きょうだいの長女なので身につまされるところが多々あった。
頑張っていることを褒めて欲しいんだけど、よく言えば豪快、悪くいえば繊細さに欠ける父親は彼の努力には気づかず、褒めてくれるお母さんは亡くなってしまった。

幸夫と真平は、プライドが高くて、自分の殻に閉じこもりがちという意味で近しくて、だから他者の気持ちに鈍感な幸夫も真平の心には寄り添うことができたのだと思う。
そして、大宮家に必要とされるうちに、幸夫はそのいびつさを見て見ぬ振りしつつ、そこを自分の居場所だと考えるようになる。
その居場所が奪われそうになった瞬間、子ども相手にかつて妻にぶつけていたような嫌味を口走ってしまう幸夫は、とっても子どもじみた態度でみっともないんだけど、切実で、深く身にしみて愛おしく思えた。

守るものがあると弱くなる。
私はそう思っているし、たぶん主人公もそう思っているような気がする。
それでも、主人公が最後に辿り着いた結論には、弱くなることを補ってあまりある何かを手に入れた確信があった。

使い古されたノート、一人で洗濯物をたたんでいる瞬間の、テレビの音。だんだんと登れるようになっていく坂道。
見た後も、積み重ねた幾つもの光景が甦ってくる映画だったし、映画を見終わった今も、幾つものシーンを思い出して涙ぐむことがある。
幸夫が、亡くした人のことを大切に思っていたのかという点について、私は「いいえ」だと思う。大宮家についてもあの家に通っているくらいがちょうどよく、もしあそこに住んでいたのだとしたらうまくいかない人なんじゃないかとも思う。人はそう簡単には変われない。
ただ、今の自分だったら大切にできたとは思っているのだろう。
そう思えるまでの、永いリハビリのような物語だった。
素晴らしかったです。

まだ小説版を読んでいないのだけど、読んだあとに答え合わせをしたいので、先に感想を書いておく。