3月の記憶

毎年思うことではあるけれど1月は長いのに、2月というのは一瞬だ。単純に日数が少ないということだけではなくて、きっと正月気分が抜けきった頃にやってくる現実が2月ということなのかもしれない。そこから年度末の3月、町中に新しい人があふれる4月を経て、あとは長期休暇という名の休憩ポイントを目指して生活しているうちに1年が終わる。
ただ、振り返るとそうやって圧縮される1年も、やはり1日の集合体であることは変わらないので、ふとした拍子に呼び起こされた記憶の密度に驚かされることもある。

つい先日、懐かしいひとの近況を、受け身を取るよりも前に知ってしまうということがあって、つい吹きこぼれた情報量の多さに圧倒された。
年をとるごとに忘れるのが上手くなったせいか、あまり思い出したくないことはちゃんと思い出さずに済むようになったのだけど、
それらは決して消えたのではなく、記憶の視界に入れないようにするのがうまくなっただけなのだ。

そういったきっかけは、例えば季節の変わり目であったり、特定の日付に紐付いていることもある。
例えば、日が暮れ出すと、はやく帰らなくてはと言う気分になるのもそれだろう。
幼い頃、チャイムがなったら帰るように、と言い聞かされて育ったせいか、どこにいたって、昼間と夜の間の時間には少し急かされるような気持ちになるけれど、
少なくとも今は、足を動かせば帰ることができることを知っているし、
それとおなじように、迷ったときはとにかくひとりごとみたいに文章を書けば、いつの間にか水面に顔をだせるということも知っている。

世の中には、知るのが怖いこともある。
けれど、忘れないまま思い出さなくなることは可能なので、
あかりを目指して、とにかく足を進めれば、家はきっともうすぐだ。