「気がする」はなし

おばけとか、占いとか、それに類する話題が嫌いなわけではないけれど、自分にとって「根拠があるかどうか」というのはかなり大事な判断基準になっている。
なのに、私は「願掛け」も好きなのだ。例えば高校3年生のとき、大学合格の「願掛け」にポテトチップス断ちをしたくらいで、
「これ今日終わらせないと明日大変なことになる気がする」と思ったら終わらせないと落ち着かないし、「今日は頑張ったのでいいことがある気がする」というのも日常茶飯事。晩御飯を作ったくらいで「気がする」けれど、すぐに忘れるので損した気持ちにもならない。
それらが願掛けの定義にあてはまるかどうかはさておき、つまり私はそんな具合に根拠のない予感を信じるタイプでもある。

最近、「はてなダイアリー」終了のお知らせがあった。

はてなでは現在、「はてなダイアリー」と「はてなブログ」という2つのブログサービスを提供しておりますが、はてなダイアリーを2019年春をめどに終了し、はてなブログに統合いたします。
http://d.hatena.ne.jp/hatenadiary/20180830/blog_unify

私も2015年からこのはてなブログに移行して、基本的にはここを、それまでのダイアリーの延長線上として使っている。
その頃からたまに、もしもダイアリーとブログを別々に更新していったら、世界線が分岐するのでは、なんて考えることがあった。
文章というのは書いた本人を含め、観測するひとのものである。
例えば、東京がゾンビ化した人々で溢れた世界という設定で日記を書き始めたら、それを本気にする人は少ないだろう。けれど「今月から海外で暮らします!」とかであれば身近な人以外は「そうなんだ」と思うかもしれないし、「今夜はサンマを焼いた」と「今夜はカレーだった」という2つの日記があれば、世界にはサンマを焼いたichinicsとカレーを食べたichinicsが誕生してもおかしくはない。

それってなんだか面白い。と同時に、いざそれをやってみることを想像するとなんだか恐ろしくもなる。
タイムパラドックスの法則、とはちょっと違う(と思う)けれど、並行の状態を続けていくうちに、いつかは真実味のない側の自分が消滅してしまいそうだからだ。
それ以前に、更新を続けるには、どちらにより真実味をもたせたいかという自分の希望も入るだろうし、そのために実際にサンマを焼いたり海外で暮らしたりして、結果的に世界線が1本に収束していくという可能性もある。

なんてことをぼんやり考えていて、とはいえ嘘をつくのは「何か悪いことが起きる気がする」ので、どうせ世界線を分岐させるなら、ゾンビくらいのほら話がいいなと、思ったりしている。