悪夢と「アメリカン・ユートピア」

先日、妹と「よく見る悪夢」の話をした。
妹は「本番前なのにまだ台本を読んでいない」悪夢をよく見ると言っていて、彼女は学生時代は演劇部だったし、当時の思い出が影響してるのかもしれない。

私のよく見る悪夢ベスト3は、おそらく「遅刻する夢」「冷蔵庫に入れておいたものを食べられてしまう夢」「家にきた見知らぬ人が帰ってくれない夢」だ。
「遅刻」については、学生時代遅刻ばかりしていたことが原因だろう。一方、皆勤賞を取りかけたこともあるという(えらい)妹は遅刻する夢をみないという。
「冷蔵庫」については、実家にいた頃、「楽しみにとっておいた食べ物」を父親に食べられてしまうという事件が約半年に1回程度は発生していたのが原因だ。それは妹も覚えていて、(半年に1回程度とはいえ)相当な恨みとして蓄積されているんだねえ、なんて話をした。

そのように、夢(特に悪夢)というのは、過去に恐れていたこと、常々嫌だと思っていることが形を変えて繰り返し再生されるパターンが多いように思う。

そして「家にきた見知らぬ人が帰ってくれない夢」だ。
これはおそらく一人暮らしをするようになってから見るようになった夢で、いろいろなパターンがあるものの「帰宅したら家に見知らぬ人がいて、なかなか帰ってくれなくて非常に困る」というのが基本的なあらすじだ。
実際にそういう体験をしたことがあるわけではないのに、早く帰ってほしい、早く1人になりたい、もうこの家を出るしかないんだろうか、と焦って目が覚める。

「なんでそんな夢みるの?」と妹は言った。
それは多分、私がそういう人間だからだと思う。

そして「アメリカン・ユートピア」をみた。
デヴィッド・バーン(元トーキング・ヘッズ)のアルバム「アメリカン・ユートピア」を原案に作られたショー(2019年秋スタート)を、スパイク・リーが映像化した作品で、
(とても面白かったので、まだの方にはぜひにとおすすめしたい)
曲と演出と合間のトークとがすべて1本のプレゼンになっているようなところがわくわくしたし、自分にとってはカート・ヴォネガットの小説を読んでいる時の心地を思い出すところが多々あった。

ショーの中盤、「everybody's coming to my house」について、

先日、この曲がハイスクールの合唱部によって歌われる機会があった。この曲は「everybody's coming to my house」と言いながらも、本当は早く帰ってほしいと思っている、そういう部分が出てしまう。私はそういう人間だから。しかしその合唱バージョンは違った。皆を歓迎している雰囲気があって、私もそっちがいい!と思った。しかしながら私はこういう人間なので…

というように話す場面があった。記憶で書いてるのでニュアンスが異なるところもあると思うのだけど「そっちがいい!」と「私はそういう人間だから」というところは強く印象に残っている。

「everybody's coming to my house」は移民についての歌であり、つまりhouseは何か、このショーの意図するところは何か、というのは明瞭である。最初からデヴィッド・バーンは「移民がいなくては成り立たない」と語り、バンドも多国籍な素晴らしいメンバーで構成されているし、彼自身現在もイギリスとアメリカの二重国籍である。そういったメッセージを伝えることと、
しかしながらごく個人的な部分で、自分は早く帰ってほしいと思うタイプの人間であるということが同居できているというところを、私はとても好ましく、心強く思いながらみた。

人が出て行ってくれないという悪夢をしばしばみる私も、人が嫌いなわけではないのだ。
好きな人は好きだし、一人も好きだし、ポテトチップスの袋を眺めているのも好きだ。
誰であれ人は理不尽な差別をされるべきではないと考えているし、別々の場所で眠りたい相手を好きという状態もある。

「Every day is miracle」の歌詞も気に入った。
繰り返しの「毎日は奇跡、毎日は未払いの請求書、夕食のために歌わなくちゃ、互いに愛し合おう」というところ。
毎日を未払いの請求書のように感じているのも正直な気持ちだし、同時に奇跡的なものとして大切にも思っている。それでも月曜の朝はだるい。しかし今日が来たことは嬉しく思っている。
反対のようなものが、実は共存して寄り添っている。このショーの冒頭で示される脳のように。

www.youtube.com