疑問点を整理

見えないものについて考えてると頭が混乱してくるので、ざっと疑問を吐き出してみる。
michiakiさんのこのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20061023#1161536188)を傍らに考えてみると、「わたしはなぜ<わたし>なのか?」という問いに対し、「それは単に私は私が見るものしか見れないし、私が聞くものしか聞けないからだ」という答えで納得がいかないわけは、つまり、インプットされる情報に意味付けしていくことで、四次元的なマップが<私>の中には常に作られ続けている、というイメージがあるからだと思う。そして、仮に、AさんとBさんに同じ感覚情報をインプットし続けたとしても、AさんとBさんの中に同じマップが広がっているといえるのだろうか?
AさんとBさんという体にこだわらないとしても、たとえば朝起きるたびに別の体にいる男を描いた小説「貸金庫」*1を思い浮かべてみて、起きるたびに別の意識を持つという状況を想定しても、やはりそこにはなんらかの意識があって、その意識はほかの意識と重なることができない、というか情報を共有することができても、二つは一つにならない。ような気がする。
いや、むしろ一つが二つにならない、かな。

「僕達の主体って一体一体のボディに宿ってるの? それとも集団としてのタチコマに共有されてるの?」

というタチコマの台詞に出てくるみたいに、仮に主体というものが集団に共有されているとしても、そこには、主体が同時に複数あれない不自由さ、があるように思う。それは「なぜわたしは<わたし>なのか」という問いと、にたようなとこにあるような気がするんだけど。

*1:イーガン「祈りの海」の冒頭の話