STUDIO VOICE 9月号「現在進行形コミックガイド」

そういえば前に買ったスタジオボイスも漫画特集「最終コミックガイド2005」だ。michiakiさんとこでおすすめされた(?)ので買ってきました。ありがとうございます。

今回は前回面白かったガイド部分(現在連載中の50作品)よりは、インタビューのほうが面白かった。「本谷有希子×瀧波ユカリ」「柴崎友香×石川雅之」なんて豪華な対談も面白かったけど、何といっても、いいなぁと思ったのはよしながふみさんのインタビュー。

「(略)『愛すべき〜(娘たち)』を描いてみてはじめて、どうしてボーイズラブを描いているのかがわかった。”男女の話を描かなければ、フェミニズムに触れないで済むからなんだ”って。ボーイズだったら、私自身が女として持ってしまう葛藤を描かないで済む。だから描いてたんだなぁっていうのを遅まきながらわかったんです」

ああ、そうだよなぁ、と思ってしまった。私ですら、日常で、フェミニズム的な話題には、できるだけ触れたくないと思っている。ものを描く人だったら、なおさらそう思いいたる場面は多いだろう。もちろん私はフェミニズムが何なのかすらよく分かっていないのだけど、簡単にいえば、外側から評価されることでなく、自分で自分を認めることができればいいと思っているのに、それだけで満足することに抵抗を感じる人が、特に女性には、多いような気がするのだ。そして、その気持ちが私にもわかるからこそ、そこにあえて触れたくない。
「愛すべき娘たち」の第三話に、結婚を前にして、修道女になってしまう女性の物語があった。ここでインタビュアーの伊藤剛さんは「僕は単純に、自分がこのまま幸せになってしまうのが突然怖くなったんだろうという読みをしていたんです」と言っている。もちろん、どんな読み方も自由だ。よしながさんもそう答えている。でも、私はこの読みに少し驚いた。

「ちょうどその頃友達から”税金も払ってて、犯罪もしてなくて、なんにも世の中に対してやましいことはないはずなのに、恋愛をしたことがないっていうこの1点だけで、どうしてこんなに責められてる感じがしなきゃいけないのか”って言われたんです。”人を愛したことがないってそんなにいけないことなのか”って。”彼氏がいなくてさびしいっていう単純なさびしさだったら、つらくない。彼氏が欲しいと思わないことへの罪悪感っていうのがどうしてこんなになきゃいけないのか””愛せることが素晴らしいって誰が決めたの”って。」

この問いに苦しめられる理由のひとつは、おそらく、その感情を、他者に理解されにくいということにあるのだと思う。仕事をしていて、彼氏はいない、という状態を負け犬というんだったか、とにかく、そういうカテゴライズをされていくことで、息苦しさを感じる人は多いだろうし、おそらく男性にだって似た形での葛藤はあるだろう。
修道女になることを選んだ彼女は、人を愛せないというよりは、異性を愛するということが、わからなかったのだと思う。もちろん、いまそこにある感情を愛と呼ぶことはできただろう。しかし彼女にとっての「愛」は、もっと純粋なものであるはずで、そして彼女は自分に嘘をつくことができなかった。
彼女にとっての幸せは、自分の気持ちに嘘がなく、誠実であることだったのだと私は思う。しかし周囲はそれではなく、この場合は結婚の方を幸せであった、と考える。インタビュアーの人もそう読んだのだろう。だって結婚相手の「彼」はいいひとなのだ。彼女だって、それは分かっていたと思う。ただ、彼女が彼に対して抱く気持ちと、彼の抱いている気持ちの違いに、気付いてしまった。それは不幸なことだろうか?
よしながさんの友人の話に、私は「そんなことに罪悪感を感じる必要なんてない」って答えたいし、彼女がもっと楽に、自分の幸せを幸せと認めることを許せるようになればいいなと思う。
確かに、愛せること(ここでは恋愛)は、素晴らしいことだ、と私も思う。けど、それは唯一の素晴らしさでもないし、その感情の定義は、実は、人それぞれ違うんだと思う。それはまあ、いってみればごちそうのようなものだ。出会えた人は喜んで享受すべきだし、でも別のごちそうだって世界にはたくさんある。

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)