意識と体を補完する目

意志が行動に結びつくのではなく、行動が意味に補完されるのだとしたら、という話の続きをもうちょっと考えてる。
お腹が空いて、ご飯を食べるまでは計算のようなもので、今私はお腹が空いたのでご飯を食べてるんだなぁと確認する作業が意志なのではないかという仮定(妄想でもいいですが)に基づいて考えてみると、目の前に選択肢があっても、それを選ぶまで/選んだあとの確認としての意味付け、は別の次元に分けられるように思うし、言葉がある生活というのは常に意味を補完しながら生きることでもあるような気がする。
ただ、行動のない、実体化してない思考について考えると、世界はちょっとややこしい。そこには意味/言葉だけがある。ように見える。でも「意志する」ということは、本来そこから生まれてくるんじゃないんだっけ?
michiakiさんのところフチコマが引用されてたので思い出したのがこの話。

「だけど僕も最近は自分の意識と体が一致していない気分になることがあるんだ」
「どういうこと?」
「自分をはるか上空から見下ろしている自分がいるような感覚かな」
「ああそれ僕もある! 僕達の主体って一体一体のボディに宿ってるの? それとも集団としてのタチコマに共有されてるの?」
攻殻機動隊 SAC 2nd GIG/第15話「機械たちの午後PAT.」

この話は好きで何度も見てるんだけど、私がここを聞いて思ったのは、この15話の主題とはちょっとそれて、「意識と体」と、それを客観的に見る「目/認識の仕方」を主体とか個性とかゴーストとかいうのかっていうことだった。
言葉の定義が自分の中でも曖昧なので、うまく言えないんだけど、意味/言葉が「目」に含まれるとすると、意識(情報)の方、は、並列化できる可能性もあるってことなんだろう。メルヘンめいてきましたが、やっぱ、そういうことなんだと思う。コピー&ペーストした文章みたいに、焼き増しされた写真のように、それはあり得る。
で、それが何を意味するのかってのが、よくわかんないのでこの先は保留。とりあえず自由意志からは遠くにきてしまったような気がするけど、目(思考)の唯一性っていうのはまだ信じてたりします。

なんてだらだら書いてたら、michiakiさんの新しいエントリがもうありました。

ではシステム内の記号だけを使ってシステムの外へ出るにはどうすればいい????(いや、もう、それ、やれているはずなんだけど……)
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20060923#1158940485

んー? それってどういうことなのかがまずわからないー、と思ったので、michiakiさんがひらめくの楽しみにしてます。