小学校の卒業間近、裏門のそばにクラスの皆でタイムカプセルを埋めた。ガチャガチャのカプセルに、手紙と、友だちとおそろいで買ったキーホルダーを入れたのをよく覚えている。
その場所は池を作る工事のために掘り返されてしまった、というのはもうずっと前に聞いていたのだけど、先日、投票の会場が小学校だったついでにその場所を確認してみると、そこにできた池もすでに埋め立てられ、ただの草むらになっていた。当時の校長の趣味で、蛍を育てようとして、失敗したので埋めてしまったのだと、後から教えてもらった。
タイムカプセルを埋めた場所には、S君が作った木彫りの船が飾ってあったはずだ。私も色を塗るのを手伝った。工事までの数年でくたびれていたとしても、あのきれいな船を倒して、ガチャガチャのカプセルが詰まった缶を掘り出して、何も思わずに捨てたのだろうかと考える。考えるとすこし腹が立つけれど、その辺はもうずっと昔に、散々考えたことだ。
ただ先日、あの草むらを見て考えたのは、タイムカプセルを、約束どおり成人式の日に皆で掘り出すという未来(というか過去)は、あったのかもしれないということだった。マジックで名前をかいたカプセルから手紙を取り出して、読む自分を想像する。そこに書いてあることを実行するという分岐も、どこかにあったんじゃないかなと思う。
→
ふと思い立って、その草むらを写真にとり、おそろいのキーホルダーを入れた2人にメールする。1人からはすぐに返信が来る。何度かやりとりをしているうちに、近いうちに会おうよ、という話になる。
そして、これはあのタイムカプセルがなくなってしまったからこそ起きた出来事なんだなーと思い、なんだか不思議な気持ちになった。私はあの手紙に、当時好きだった男の子のことや、飼い猫のことと一緒に、3人でずっと仲良くしていられますように、ということを書いたのだった。
校門を出る。ありえたかもしれない、タイムカプセルを掘り出す自分とすれ違ったような気分になって、こういう感傷的なところは、相変わらずだなあと思う。