「熱帯魚」/吉田修一

熱帯魚 (文春文庫)

熱帯魚 (文春文庫)

ふと目に入って、久しぶりに再読。2年くらい経てば、細かいところは意外に忘れてるもんだなぁと思うし、感じ方も随分違っていた。前読んだときはまだノートに感想を書いたりしていたんだけど、読み返してみてまるで別人だなと思う。自分が。他の本ではそんなことあまりないような気がするのに。
 *

「熱帯魚」

主人公の大輔は叔父のもとで大工の弟子として働いている。

光男の話はもちろん嘘に決まっている、と大輔は思う。ただ決まってはいるが、もし誰か一人でもその話を信じれば、それは本当の話になるんじゃないかとも思う。本当の作り話なんて矛盾している。そんなことは大輔にも分かる。ただ、矛盾なんか塩かけて食っちまえと、ふと思いたくなることもある。(文庫版p88)

この一文からもわかるように、大輔は善意のもとに思考停止し、自身を過信しているのだが、しかしやはり善意の人でもある。この物語の中では、自らが構成し、その中心に座していると考えていた場所に「裏切られた」と感じた大輔の起こす行動の必然性は痛いくらいに伝わってくる。確かにかれは身勝手だ。しかしそれぞれに見えている景色が「異なる」ということを初めて知ったときの驚きととまどいは、こんな風に訪れるものだ、とも思える。

「グリンピース」

他人を見下し、無関心を装い、恋人すらも軽蔑している主人公の一人称で描かれる短編。自分が「唯一の」肉親である祖父は入院しているのだが、その祖父の存在ですら恋人とのやりとりの切り札に使う主人公にはとうてい感情移入もできそうにないのだが、彼にとっての世界のバランスが崩れ、表題作と同様に、彼の世界が崩壊していく様を見ていると、やはり胸にせまるものがある。また、彼が空き缶に書き綴る「本音」のような言葉も、彼にとってはこれが真実かどうか見極められないで持て余しているかのようだ。しかし、この短編が「熱帯魚」と明らかに異なっているのは、ラストシーンだと思う。そこで目に映る風景は、きっと彼にとっては救いとなるのではないだろうか。大島弓子さんの「私の屋根に雪のつもりつ」を思いだす。

「突風」

証券会社で働く、所謂エリートである新田は、休暇を利用して、ほんのきまぐれのようなその「勘」から九十九里にある民宿で働きはじめる。そこでの日々に対して、新田はまるで何も感じていないかのように、ただ観察をしている。

イカれてしまう人間というのは、こんな感じで素に戻る機会を失うのではないだろうかと、新田はぼんやり考えた。(p235)

ここの下りにはちょっとぞっとする。新田はそこまで「理解」していながらも、素に戻る機会をやり過ごして、「逃げ続ける」ことを選択しているように映るからだ。p225に出てくる自問自答のように、どこかで立ち止まってしまう時がくるのだとしたら、そこは一体どこなんだろう。