「春にして君を離れ」/アガサ・クリスティー

先日、インフルエンザで高熱が出て、一日中布団の中にいたときに読んでいた本。ジョーンという主人公の女性が、バグダッドからイギリスへ帰る途中に足止めをくらい、一人きりになったところで自分自身について考えはじめる、という、ほとんどそれだけのお話なのだけど、しばらく1人きりでいなければならないようなときに読むのが一番堪える(うってつけともいう)内容で、ちょっと辛い読書だった。
この物語の面白いところは、ジョーンという女性の盲点が、ジョーン自身を語り手として浮き彫りになっていくところにある。
それは同時に、ジョーンの言葉を通して読んでいるこちら側にも盲点があるのではないか、知らず知らずのうちに、誰かを傷つけているのではないか、そしてそれは、知らなかった、では済まされないことなのではないか、と思いをめぐらせることでもある。

わたしがこれまで誰についても真相を知らずにすごしてきたのは、こうあってほしいと思うようなことを信じて、真実に直面する苦しみを避ける方が、ずっと楽だったからだ。/p250

ジョーンは、立ち止まらなくては見えないものを、見たのだと思う。そして、そのことが明るみに出たときにどうなるか。
しかしこの物語がおそろしいのは、そのような盲点は誰にでもある、ということもまた浮き彫りにしているところだ。物語の最後に、語り手が変わるのだけど、ここから先は、その登場人物の(もしくは読み手の)自戒の物語になるのではないかなと思った。

ちなみにこの本は、「焚書官の日常」さんの日記(http://d.hatena.ne.jp/./mutronix/20091129/p1)で触れられてるのを読んで気になって読みました。ありがとうございます。

 南極物語に行きたかった話

先日も感想を書いた「flat」という漫画には、ひとりで家にいることが多くて、つい我慢をしてしまう「手のかからない」子どもであるところの「秋くん」が登場する。この秋くんがめずらしく懐いた相手が、主人公である平介なのだけど、
先日でた新刊を読みながら、私がこの漫画を読んで、平介には、ぜひ秋くんを大事にしてほしい、嫌わないで欲しい、と思ってしまうのは、もしかしたら自分の幼い頃を重ねて読んでしまうからなのかもしれないなーと思った。

私は「となりのトトロ」においては完全にサツキ派で、心がせまいようだけどメイのことはちょっと苦手だった。
ただ、その苦手、には若干のうらやましさが混じっていて、たぶんそれがぜんぶなんだと思う。
おんなじことを「はなまる幼稚園」の杏を見ていても感じてしまうのは(アニメは面白く見ています)、たぶん大人の注目が自分にあることをうたがわないその様子がうらやましいんだろうなーと、思った。すごく勝手なことを言っています。

私は4歳まで一人っ子だった。そこから立て続けに弟が2人と妹が生まれた。お姉ちゃんと呼ばれることが誇らしく、はりきってお手伝いをしたものだけど、その間に2度ほど親戚の家に預けられていた期間があって、そのときのことは、今思い出しても居心地が悪い。
前にも書いたことがあるけれど(id:ichinics:20071211:p1)、従兄弟の家に預けられていたとき、従兄弟と友だちが「南極物語」を見に行くと話していた日があった。いーなーと思いつつ、「○ちゃんもいく?」ときかれた私は反射的に「ううん」と首を振っていた。「そっかー」といって従兄弟たちはでかけていった。
後に残された私は、水槽のグッピーを数えながら、後もう1回誘ってくれたら行ったのになーとか思っていた。

私は、秋くんのようないいこじゃなかったし、長女だったことで特にさみしい思いをしたとかいうわけでもないのだけど、
ただ、「flat」という漫画を読んでいると、どうか、秋くんの気持ちが、報われますようにって、こんな年になってまで「南極物語行きたかった…」とか思っているようなひねくれた大人になりませんようにって、思ってしまうのだった。
3巻もとてもよかったです。

flat(3) (BLADE COMICS)

flat(3) (BLADE COMICS)

1、2巻の感想→http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20100106/p2