文芸春秋の記事を読んだ

先日、中途半端に触れてしまって*1気になっていたので、文芸春秋4月号に掲載された、村上春樹さんの記事「ある編集者の生と死−−安原顕氏のこと」を読みました。
村上さんの、小説ではない文章を読むのが久しぶりだったのだけど、やはりこの人の文章は、小説的だなというのが第一印象。それから、私が安原氏についてほとんど何も知らないからか、この文章を読んでもやはり、安原さんがどういう人だったのか、わからなかった。ニュアンスは伝わってくるけど、ぼんやりしてる。
それは、ここに書かれているのが「村上春樹の見た安原氏について」だからなんだろうけど、ここには同時に「僕」についても書かれている。そりゃそうだよね、と思うけど、警鐘としての役割を果たすための文章ならば、必要ない部分もたくさんある、のでまあそれだけの役割ではないのだろうけど、要するに「安原氏への手紙」と「世間への警鐘」が一緒にあるとこが、危うい。
安原氏のやった行為云々については、やはり「犯罪」だろうと思うけれど、作家の直筆原稿の流出がある意味プライバシーの侵害である、と書くならば(そしてそれは至極もっともなことなのだけど)、「世間の小説家をめった切りにしていたのは、自分が小説家になれなかったフラストレーションが大きかったからかもしれない」などという推測を書くことにためらいはなかったのだろうか。その関係が一時期だとしてもお互いに友人と認めあったものであったなら。
というか、私自身もこれを読む前から、なんとなく、そういう理由だったら嫌だなとか思い描いていたんだけど、それを匂わせる文章を村上さんが書く、というのが少しひっかかる。
なんというか「知っている」人について書くのって、難しいのかもしれないなと、そんなことを思った。
* * *
私は村上春樹さんの小説はどれも複数回読み返しているほど大好きなんだけど、エッセイは読み返したものがないし、インタビューなどは見た記憶もないってのは、その作品があんまりにも好きなので作者自身についてあんまり知りたくない、という気持ちがあるのかもしれない。
もちろん、インタビューとか読みたいタイプの作家さんもいるんだけど、その基準は自分でもよくわからない。そのへんは、これ(id:ichinics:20060207:p3)の続きとして気が向いたらまた考える。

*1:id:ichinics:20060311:p2