動物化した音 − Richard D. James Album について−

久々にプレイヤーにのせる。このアルバムを最初に聴いてから、もう10年も経っているというのに、この気持ちよさが色あせていないことに驚く。全ての楽曲に思い入れがあるのだけど、特に「4」「Corn Mouth」「Girl/Boy Song」「Milkman」は素晴らしい完成度だと思う。そして10年前の発表時すでに、このアルバムは大絶賛で迎えられていたのだという状況を思い出すと、時間がとまってる、なんていいたくなるし、実際とまってるのかもしれない。私の中で、テクノ/エレクトロニカへの興味は津波のようにやってきて、あっという間に去って行った。とまってるのは私だ。

Richard D James Album

Richard D James Album

かといってテクノ周辺の歴史にまったく不勉強な私にはこのアルバムについて語る言葉を持っていないのだけど、最近寝る間際に西島大介さんの「土曜日の実験室」をぱらぱらと読んでいて、その中に収録されているコラムを読んだら、なんとなくわかったような気分になってしまって。

萌えな音というのは、九〇年代のテクノが終わり「テクノで世直し」や「ベッドルームから世界へ」というスローガンが消えた後に、「この音が気持ちいいからすき」というだけで聴くことが許されてしまう、音響派エレクトロニカと呼ばれるジャンルにこそふさわしいのではないか?
(略)
東浩紀動物化するポストモダン』にならえば、エレクトロニカという、九〇年代テクノ以降の状況は、電子音楽における動物化だったのではないか?
動物化する電子音楽 われ発見せり」ISBN:4900785342

Richard D. James Album」は九〇年代の作品ではあるけれど、個人的にはエレクトロニカの中でも、音響、ポストロックが広く受け入れられ求められていった流れの中にあるように感じていた(そしてそれは九〇年代以降というよりは九〇年代後半から21世紀の初頭にかけてのことだと思う)。もちろん、それは私の個人的な感覚でしかない*1。ただ、最初そう考えていたときは、このアルバムにある乱調の美というか、攻撃的な音の中に見えるノスタルジーに後のエレクトロニカを重ねていたような気がするのだけど、この「Richard D. James Album」を含む Aphex Twin の音楽には、そういった物語の共有/文脈に属すことを拒絶するようなところがあるのも確かだった。そして、まあ「気持ちいいから」というところへたどり着くのだった。
例えばフロア向きの音楽が繋がりや解放をイメージさせるのに対し、ここにある要素、たとえば高速ドラムンベースに現代音楽的なアプローチと時に安っぽくも思えるシンセの絡ませるやり方は、聖と俗を行き来しながら常に閉じる方向へ向いているイメージだ。内側に圧力をかけることで弾ける手前の風船のような緊張感と浮遊感を共存させ、内面という世界を映し出す。
しかしそれは意図して描かれた物語ではないように思う。重要なのは、やはり音が気持ち良いということ。そしてそれだけを理由に聴くことが許される音楽。
現代音楽はこの先に何を見るのだろうか? もう見えてるの?

Richard D. James Album」とZAZEN BOYS

ZAZEN BOYSの音楽は、録音されたもので聴くよりも圧倒的にライブの方がすばらしく、しかしだからといってレコードを否定しているわけではなくそれはあくまでも雛形だ、ということは前にも書いたけれど、しかしこう何度もライブに行っていると、彼等がインプロヴィゼーションを主体としたバンドのような錯覚を受ける。
しかしそれはやはり、緻密な計算と鍛錬と才能によって生み出されているのだということを改めて考える。多くの楽曲において、その呼吸は独特で、とらえにくい。しかしそこには、ここでしか体験できない生き物がいて、それに触れあうのがライブなのだと思う。それを観客を拒絶していると感じる人もいるだろうが、そこを覆うポップな楽曲もきちんと持っているのが向井秀徳という人だ。そしてそれは、格好良いというだけで、聴くことが許される音楽なのだと思う。
そしてこの「Richard D. James Album」にも、私は同じことを感じるんだった。もちろん、単に両方好きだからというのが大きいのだけど、乱調のようでいて緻密に計算された音。攻撃的な高速ドラムンベースにのせられたセンチメンタルなストリングス、声、おもちゃの音。この音にそれを重ねるのかという意外性を連発しているようでいて、それが見事にコントロールされたものである点。そして突き放すような音の後に折り込まれるポップな楽曲。ライナーで佐々木敦さんに「フザけてるのかも…」と評されている#4ですら、十年経った今では愛おしいポップさだ。
聴き込めば聴き込むほどに、おなかがすいたら何か食べたくなるのと同じように、次の音を無意識にたぐり寄せている。そして不意に、新鮮に聞こえる瞬間がやってきたりもする。それは自分の中になかった文法を、ほかの生き物と過ごすうちに学んでいくことに、似てるんじゃないかと思う。

*1:けど、わりと一般的な受け止め方なんじゃないかな、と思っている。音楽雑誌をほとんど読まないのでよく分からない。