「なぜ私は殺さないのか」

藤原新也さんの『映し世のうしろ姿』を読みはじめたら、冒頭の「顔がない」というコラムに聞き覚えのある話が出てきた。永井均さんの『これがニーチェだ』でも扱われていた、大江健三郎さんの言葉だ。
NHKの討論番組の中で、ある少年が発した「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを、後日、大江健三郎さんが朝日新聞に掲載された『誇り、ユーモア、想像力』と題した文で取り上げたという話で、『これがニーチェだ』の中で引用されているのは以下の部分。

「私はむしろ、この質問に問題があると思う 。まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ。なぜなら、性格の良しあしとか、頭の鋭さとかは無関係に、子供は幼いなりに固有の誇りを持っているから」
『これがニーチェだ』p20-21

これに対し、永井均さんは、「これは答えにならない。まさにそういう種類の答えに対する不満こそが、このような問いを立てさせる」と書いている。*1
「まともな子供」とはどのような存在であるのかとか、「固有の誇り」は全て問いを口にすることを恥じることに繋がるのかとか*2、いろいろひっかかるところの多い言葉なのですが、私個人の思いは前にも書いた*3のでここでは略します。もちろん、大江さんの文章についても、全文を読んだことがないのでニュアンスはわからない。いつか国会図書館に行った時にでも探してみようと思う。
さて、一方、藤原新也さんはこう書いている。

大江さんの言うようにその少年の言葉には人間の持つべき最低限のヒューマニズム、つまり、人間の誇りや他者に対する基本的な愛情が欠落していることは否めない。しかしなぜその人間としての基本感情が欠落しているかが問題なのであり、お前には人間の誇りがない、とその少年の前でさとしても少年の問いに対する答えにはなりえない。
『映し世のうしろ姿』p9

私はその番組を見ていないので、それがどのような態度で発せられた質問なのか、わからない。しかし、それが「殺していけない理由がないなら、殺していいんでしょ?」という意味合いでで発せられたのか、それとも「人を殺してはいけないはずなのに、なぜ人は殺されるのか」という疑問から発せられたのかによって、受ける印象は違うはずだし、その質問の立脚点はその問いを抱えている本人以外にとっては推測でしかない。まさか、問いを持っただけで「基本感情が欠落している」とされるとでもいうのだろうか。もちろんそんなことは意図していないと思うし思いたい。
藤原さん自身の「答え」はどんなものなのかというと、以下のような言葉に纏められている。

(略)ひとたびそれぞれ固有の名前や年齢や家族や、そして彼ら固有の人生というものがあるのだという想像力が働いたなら、つまり”顔”が見えたなら、少年はその”顔のある人”を殺そうとする時、その代償として多くの心の痛みを伴うはずだ。それが慈悲というものだろう。
私たち大人はここで、なぜ人を殺してはいけないのかという論を組み立てるその前に「この世にヒトという抽象的なものは存在しないのだよ」ということを少年にまず伝えなければならないわけであり、そのことに少年が理解が行った時、それをもって答えとするということだろう。
『映し世のうしろ姿』p12-13

「この世にヒトという抽象的なものは存在しないのだよ」というのは、良い表現だなと思うし、とても大切なことであると同時に、それが自明のこととしてあるのが理想だと考えている。
しかしそれは「なぜ人を殺してはいけないのか」ではなく、藤原さん自身の「なぜ私は殺さないのか」の答えにしかなりえない。つまり、この問いについては、結局それを答えていくしか、ないのだろうなと思った。

*1:この部分について以前書いた感想→id:ichinics:20060514:p2

*2:「固有に(同一の)誇りを持っている」わけではないのに、という意味で

*3:id:ichinics:20060721:p1