河岸忘日抄/堀江敏幸

河岸忘日抄

河岸忘日抄

「河岸忘日抄」を読むのには、何日もかかった。そして、その間ずっと、楽しいような悲しいような気持ちが入り交じっていた。悲しいのは、理解がおいつかないのに理解したいと思うもどかしさについてで、楽しいのは、それに対して「他人の発言にたいして「わかる」と意思表示をするのは、ある意味で究極の覚悟を必要としる行為であり、まちがっても寛容さのあらわれではない/p265」…などという言葉が浮かび上がって見えたりするからでもあった。
言葉を手繰り、編み込まれた文章をほぐし、また編み直しながら、ただそれを続けていくことが全てのような河の暮らしは、深く深く内側に目を向け、片側に光をあてることで死角となった「ほんとうのこと」を、そっと差し出し、またさらっていく。

そんなふうに集めた言葉を、情景を、声を、一枚の大きな紙に記録していけば、彼なりの天気図ができあがるだろう。そして、できあがったとたん、それは過去のものとなるのだ。/p263

しかし、それは言葉にして、思い出し続けることで、白い穴ぼこが重なりあい、まだら模様を更新し続けることもできる。その模様を「いったい自分とは、「私」とはなんなのか?/P264」という問いの答えととることもできるし、いや、模様もまた、片側だけでは足りないのだということと、とることもできる。しかしどんな答えだろうが、名付けた瞬間に掻き消してしまうかのようなあやうさと頑さがこの小説にはあって、そこがとくに、好きだと思う。

「わたしは自分の知っていたひとびとのことを、ゼラチンを使わずに思い出そうとしている。彼等にアスピックをかけもしないし、味のよい料理につくり変えるつもりもない。おいしい料理のほうが食べやすく、またより消化にいいことくらいはわかっている。しかし、誰もがその先どうなるかを知っているのだ」/p300

なりゆきまかせに動かぬ船上での生活をはじめた主人公が語る言葉の中には、口当たりのいい物語も、思い出にかけるゼラチンもない。けれど、幾重にも蓄積されたまだら模様の底には、人生を過ごすのにはあまりある問いがあり、それを辿るだけでも存分に贅沢な読書だった。
河岸に繋がれた船が、ゆらりとゆれ「舵柄を上手へ! 世界へ!」と叫ぶ。その瞬間のめまいのような感覚を、何といえばいいのだろうか。