言葉、記憶とそれ以外

誰かの書いた文章や言葉を読んで、これは私が感じたいつかのあれだと、根拠もなしに確信してしまうその勢いに反して、「あれ」がなんなのかはさっぱり、言葉にならない、その感じがおもしろい
例えば「言葉にできないこと」をイメージするときに、私が思い浮かべる光景にはいくつかあって、そのひとつが、学校サボってどっか行こうって乗ってた、昼下がりの小田急線の車内のことなんだけど、
いつもは端っこに座るのに誰もいないからって中央に座って、視界が開けていて、なげだした足と、つま先をかすめる影と、学校指定の靴下は片方だけゴムが緩んでいて、これ三足でニセンエンは高いよなぁって、左手を鞄に添えたまま、腰を落としてだらしなく座り、ふと顔をあげたときの緑の、
その流れてく色は、陽にあたって金と薄緑の水玉模様のようで、私は隣に居る誰かに、それを言いたいと思った、けど、そうしなかったのは、いま口にしたら、それは、まったく別の意味になるような気がしたからで、
「それ」がなんだったのかは今もわからないのだけど、
誰かの書いた文章や言葉に、自分の記憶を読むように感じるということは、
つまり表面に浮かんだ言葉が重なって、それ以外を思いだすということだったり、漠としたそれ以外の中で、表面に浮かぶことなく沈んでいた部分の、続きを読んだような気がすることだったりして、
もしかすると、タイミングは遠くから巡って、いつか不意にやってくるのかもしれない。
形にならない「あれ」とか「それ」を中心にして、ぐるぐる回っていたことに、ふと気づいて顔をあげたときに、たとえば満員電車の中で、折り重なる肩越しの空に、いつか見た緑を思いだすようにして、誰かが見えたように感じるとか、そんなふうにして