グレート・ギャツビー

作:スコット・フィッツジェラルド
訳:村上春樹

最初に読んだのは中学生時代、どこかで村上春樹が「特別に好きな作品である」、と話しているのを読んだからだった。しかし、その当時の私には些か遠い話に思えたし、正直、それほど面白い話だとは思えなかった。次に読んだのは『スプートニクの恋人』が出た頃のことで、私には第二次村上春樹ブームがきていた。彼の著作を片っ端から読み返し、そこから何かを探そうと躍起になっていた。ギャツビーもその流れの中で読み返したのだけれど、やはり、どこかしっくりこないまま読み終えた。
この「グレート・ギャツビー」という小説は、あとがきで村上春樹さんも書いているように、冒頭と結末が特に素晴らしく、印象的に残る。そこには読み終えてすぐさま数度読み返し、頭の中で音読して余韻に浸りたくなるような美しさがある。しかし、それは物語と有機的に結びついてこそ、特別な色彩を放つのだ、ということを感じたのは、三度目の村上訳「グレート・ギャツビー」にして、はじめてのことだった。
繰り返し「特別な小説である」と語ってきただけあって、この訳は親密な空気に満ちている。翻訳作品として、それがどういう意味合いをもつことなのかわからないけれど、この訳は、言語の差を感じることなく読める小説だったし、その壁を取り除いた分だけ、これは村上春樹のギャツビーなのだと思う。

ただ、この『グレート・ギャツビー』に限って言えば、僕は小説家であることのメリットを可能な限り活用してみようと、最初から心を決めていた。超訳したとか、文章を作り替えたとか、そういうことではない。僕は要所要所で、小説家としての想像力を活用して翻訳をおこなったということだ。(略)フィッツジェラルドの文章世界には、思い切って懐に飛び込んでいかないことにはその核心を掴みきれないところがある。その核心に触れてこそ、フィッツジェラルドの文章は開花するのだ。/p337

読み終えてみると、この言葉の意味することろが切実に伝わってくる。そして、この小説を翻訳されたものとして読み、なおかつ原作にある陰影のようなもの、例えば複雑に重ねられた印象が像を結ぶ瞬間を体験するのに、村上春樹のリズムやステップは、とてもしっくりきていた。
同時に、この訳を読むには、村上春樹の小説の中にちりばめられた、フィッツジェラルドの片鱗をたどる楽しみもある。例えばこの場面。

「なんて美しいシャツでしょう」と彼女は涙ながらに言った。その声は厚く重なった布地のなかでくぐもっていた。「だって私――こんなにも素敵なシャツを、今まで一度も目にしたことがなかった。それでなんだか急に悲しくなってしまったのよ」/p172

何百着という美しい服がそこにずらりとならんでいた。やがて彼女の目に涙が浮かんできた。泣かないわけにはいかなかったのだ。涙はあとからあとから出てきた。彼女はそれを押しとどめることができなかった。彼女は死んだ女の残した服を身にまとったまま、声を殺してじっとむせび泣いていた。しばらくあとでトニー滝谷が様子を見にやってきて、どうして泣いているのかと彼女に尋ねた。わかりません、と彼女は首を振って答えた。これまでこんなに沢山の綺麗な服を見たことがないので、それでたぶん混乱しちゃったんです、すみません、と女は言った。そして涙をハンカチで拭いた。/「トニー滝谷*1

ここを重ねることによって、いまひとつつかみ所のなかったデイジーという人物に深みが増したような気もしたけれど、それはきっとまた別の話だ。ここでは、その涙の残すちょっとしたひっかかりのような印象/互いの抱えているものの伺い知れなさこそが大事なのだと思う。そして、その小さな針飛びのような印象を、村上春樹はあの小説のヒロインに重ねていたのではないか。

なんだか訳者についてばかり書いてしまったけれど、『グレート・ギャツビー』はすばらしい小説だった、と今なら言える。
しかしうまく説明できない。あらすじをとりあげても、手の中には残らない。人物の描写や語り口のすばらしさだけでもない。ただ、全ての言葉が結びついたところに現れる何かが、たまらない気持ちにさせるのだと思う。
その気持ちこそを、読み手の中に描いてみせるような小説だった。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)