最近、youtubeで野球選手とサッカー選手の対談を見た*1。
サッカー選手は野球選手に対して「週6も試合あるのすごい」と言っていて、野球選手はサッカー選手に「試合中ずっと走っていてすごい」と言っていて、その辺りはやっぱりスポーツ選手でも驚くことなんだ、と思ったりした。
自分は週に5日しか働いていない上にデスクワークなのだけど、常にまとまった休みが欲しいと思っている。
それでも、シーズン中は「でも帰ったら野球があるか…」と思うことでなんだかんだ張り合いがでるのでありがたいことだ。
来週は北海道まで野球を見に行く予定です。
あと今更ですがツインピークスを見ています。今S2の15話くらい。
とても面白い回もあるし、なんの話をしてるんですか?という回もあって、こういうテンポで描けるということ自体が贅沢に感じる。2017年版まで完走したら感想書きたいな。
そんな最近ですが、読んだ本をいくつかメモしておきたいと思います。
『いまだ成らず 羽生善治の譜』鈴木忠平
私が今こんなことになっている原因でもある『嫌われた監督』の作者、鈴木忠平さんによるノンフィクション本。
現代と過去を行き来しながら、羽生善治さんと対局した人の視点でその時代を描く…という構成になっている。卓越した人物を描くのに、その対戦相手を通して描くという手法は『怪物に出会った日』*2とも近いかもしれない。
かつて、友人のすすめで将棋に興味を持ち、もっと見たいなと思っていた時期があった。ただ、将棋を見るには、まず将棋を指せるようにならなければと思い、将棋のアプリを入れてゲームをやってみていたところで、まったく太刀打ちできずに挫けてしまった。
けれど、あの時この本を読んでいたら、将棋が指せなくても、ここに描かれている群像劇のように、将棋を追うことを始められていたような気がした。
そもそも将棋に興味を持ったのは「電脳戦」のドキュメンタリーを見て面白いと思ったのがきっかけだったし、AKBに興味を持ったのも、ドキュメンタリーを見たのがきっかけだった。野球もそう。
つまり今更だけど、私はドキュメンタリーに弱いのかもしれない。
「疑問に思っていたものをすべて試すことができました」
自らが指した手を「試した」と表現した佐藤の頭には正解も不正解もなく、ただ探求のみがあった。八年ぶりにタイトル戦で羽生に勝った。己を信じ、そして疑った末に辿り着いたトンネルの出口、そこにはこれまでとは別の自分がいた。(第6章 マルクスの長考)
これは佐藤康光さんの章のラスト近くなんですが、この結局は自分との戦いであるというところは投手を追っている楽しみとも似ている気がした。
『庭の話』宇野常寛
友人が読んでいたので気になって読んだ。
今やSNSなどのプラットフォーム上で行われている「情報発信」は承認の交換でしかない、という、まあ確かにそうだが身も蓋もないなというパンチラインの連続で面白く読んでいたのだけど、では今、どのような場が求められているのかということの例えで「庭」の話になっていくのが面白かった。
この「庭」の定義はまだ一読しただけではイメージしきれない部分もあるのだけど、坂口安吾の小説『戦争と一人の女』(青空文庫で読めた)を引き合いにだしながら説明をしていく部分は、特に近年コロナ禍を経験した今だからこそ、腑に落ちるところがあった。
今後もう少し考えてみたい、他の参考文献も読んでみたいと思ったのはこのあたり。
したがって家父長制的な「所有」からフェアな「関係」へ、家族や恋人といった親密圏の関係性を「改善」することーーそれ自体が望ましいことであるのはもちろん前提としてーーは対幻想を維持するための共同幻想(関係を維持するために召喚されるイデオロギー)を強化することはあっても、解体することはない
あと、庭の例(それこそほんとうの庭としての)としてあげられていた小網代の森にとても行ってみたい。


