固有性はどこに宿るか

固有性を愛するということについて、というkebabtaroさんのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/./kebabtaro/20070831/p1)を読んでいて、ふと思い出したのが、人を完璧に複製する機械が仮にあったとして、その機械によって2人になった恋人○と●のどちらを本物とみなすか、いうたとえだった。
例えばそれが物語だったりすると、ちゃんとどちらがオリジナルかわかるような演出になっていて、観客は漠然とオリジナルを選ぶべきだ、と思いながら見るだろう(という場合が多数だと思う)。しかし、○と●はどちらも、オリジナル「X」の延長線上にある。○である私は「私が本物だ」というだろうし、●だって「私が本物だ」と思っているはずだ。
そのとき、「X」の「固有性を愛する」とはどういうことなのだろうか。
kebabtaroさんのエントリでは、固有性を

(A)「固有性≒特徴的な属性」、(B)「固有性=特徴的な属性に還元されない単一性・特異性」

とわけられていたけれど、○と●両者とも(A)は備えているわけで、だからこそ、この状況を物語としてとらえる場合、(B)を備えていると思われる「オリジナル」を選ぶべきだと直感的に感じてしまうのかもしれない。
しかし、それが「人を完璧に複製する機械」であるという前提からすると、両者は複製されるその瞬間までは(B)だって共有している。だから、彼等が区別されるとすれば、それは分裂した瞬間から、新たに積み上げられる固有性によってなのだと思う。
固有性Aへの愛もまた、それを発見するという、偶然とか、たまたまに支えられているわけだけど、それを補強し、続けていくことがBとなるのかもしれない。

などと考えつつ、同時に上記のkebabtaroさんのエントリのもとになったGeheimagentさんのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/./Geheimagent/20070830)にあった、「perfume愛せるか問題」(←違う)についても考えていたんですが、それはやはり中田ヤスタカなんだろうな、と思います。
つまりエフェクトかけちゃったら一緒、というより、中田ヤスタカの音をどのパッケージで聴くかということ、なんていったら語弊がありまくるかもしれませんが、少なくとも私にとっては、そうなんじゃないかって気がします。
それでも私はperfumeが好きです。capsuleも好きですがperfumeの方が好きなのは、やはりそれが少女漫画みたいな歌詞も音の雰囲気もビジュアルもperfumeの色になっているからなんだと思う。中田ヤスタカの音が楽しいんだというのは頭ではわかっていても、よりperfumeにひかれるのは、そこに含まれる固有性Aとしての属性がパッケージごとに異なっているからなんじゃないか。それを記号といってもいいんだけど、かといってその記号だけでば好きになれない。
さらにいってしまえば、私にとって、ミュージシャンとしての中田ヤスタカを好きになるには、足りなかった部分を補うのがperfumeの存在感だったんだと思う。そして、いちど好きになってしまえば、その固有性というのは個人の思い入れのようなものに変化していく。

つまり固有性Bとしてあげられていた「特徴的な属性に還元されない単一性・特異性」とは、対象の側にあるのではなく、受け取り手の中にあるものなのだと思う。手に入れようと思って入るものではないけれど、いつの間にか握っていたようなもの。