タクシーのおっちゃん

仕事の打ち合わせに、熊谷まで行った。
5時ですねーはい大丈夫です、なんて軽く返事したはいいけれど、熊谷というのがどこだかよくわかっておらず、やっと降り立った駅からのバスが一時間に一本!ということがわかると、もうタクシーに乗るしかなかった。
焦って思わずピンとのばした自分の右腕が可笑しい。乗り込むと、運転手さんも振り返ってニカッと笑った。60代くらいだろうか。骨張った腕にしっかりと筋肉がついている。そんなことに気付くのは、おっちゃんが腕を座席の背にかけつつ運転しているからだった。
「おねえさんどっからきたの? 東京? ゴクローサンだね」
こちらがハラハラしてしまうくらい、半身こちらに向けたまま運転する。それでも、運転はさすがに手慣れたものだった。両脇を流れる田園風景に見とれていると、すぐ「熊谷すめば?」と声がかかる。
熊谷といえば、今年の夏は暑かったらしいですね。そうだよーテレビたくさんきたよ。熊谷はね、夏暑くて冬寒いの!でもそれ我慢すればヘーキだから。熊谷住みなよ。東京なんてさ、空気きたないでしょ、熊谷住んだら元気になるよ。あ、でも桜が終わる頃には黄砂で空茶色になるんだよね、だから目医者さんもうかるの。おねえさん、目医者と結婚して熊谷住みなよ。
少々風邪気味なうえに、午後いちにあった健康診断で若干気分が悪くなっていたのだけど、おっちゃんの快調なおしゃべりに相づちをうっているうちに、なんとなく気分が晴れやかになってくる。この町に住む自分を想像する。ラブレターなどを渡しに行くために自転車を漕ぐ、中学生の私が通り過ぎる。あせってこけてたんぼに突っ込む。振り返ると飛んでったラブレター追いかけてよろよろあぜ道を走ってゆく私が遠ざかる。
「この辺、もうすぐホンダさんの工場ができるんだよね。そんで三万人、募集してるんだってさ」
そうしたら、きっとこの風景もかわるのだろう。そして私も「この辺もかわったよね」みたいなことを言うのだ。
それもいいかもしれない、と思う。右手側がゆっくりと暮れていく。空がひろかった。