ワタナベ君

映画「ノルウェイの森」を見て思ったことのひとつに、自分はとっくに主人公の年齢を越したんだなあということがあった。
例えば学生時代の教師が今の自分と同じ年だった、ということに気付いて、「先生」でなく、同級生にいたらどうだろうと改めて考えたりするみたいな感じ。

小説を読んでいるとき、特にそれが一人称であれば、登場人物の世界は自分自身のものに近い。感情移入しているというのとはちょっと違うのだけど、そこに描かれる恥ずかしさや切実さに、自分を重ねようとするし、だから1人ひとり受け取り方は異なるだろうと思う。
けれど映画というのは、小説とはまたちょっと異なる視線があって、「ノルウェイの森」の場合、あらためてブリーフ姿で「もちろん」なんて言ってるワタナベ君を見るのは、正直、気恥ずかしいところがあった。
という話を、この前友だちと飲みながらしていた。
今さらワタナベ君の恥ずかしさを見せられても戸惑っちゃうよね…と話しながら、それは、この小説を読んでいたときの自分の世界を、改めて見返すようなところがあるからなのかもなー、と思った。

目印のように心強く思う存在は年をとるごとに変わっていくし、それはその対象が変わるからでもある。
でもできるだけ、好きなものを好きだったことを忘れたくない気持ちはあって、
ただそれは「ワタナベ君」ってわけではなく、当時の自分の目線みたいなものが、村上春樹のある時期の小説に残っているからなんだと思う。