世の中が不得意

竹田青嗣さんの『ニーチェ入門』を読んでいます。とても読みやすい本で、あっという間に一章読み終えてしまったんだけど、若干混乱するとこがあるので、雑感的なものを勢いでメモ。

まず、永井均さんの『これがニーチェだ』と比べると(なぜ比べるのかは昨日の日記に)、「哲学」というものの捉え方からして違う、という気がする。あーそうか、といろいろ納得するところも多くあるんだけど、その腑に落ちる感覚は竹田さんの言葉にではないように感じるしニーチェの言葉にでもない。つまり、教科書的な文章だなぁ、と、とりあえずこの本については感じる。例えば教科書を読むときに、それを誰が書いたのかを気にしないでいた頃のような。
そして、第一章までで語られているのは主に「世界」についての話だ。世の中でそれがどう受け取られ、変遷していったか。うん、ちょっと言い過ぎかもしれないけど、そういう印象を受ける。そして、私はたぶん、その「世界」についての話が苦手というか、それにあまり興味を持てないのかもしれない、と思った。興味が持てない、というと強すぎるかもしれないけど、私は多分「世界(世の中)」というものを俯瞰するのが苦手なのだと思う。つまり、それを見るときは内側からの視点になってしまう。だからその視点に興味がもてない、ということであって、それは決してこの本を気に入らないということではないし、内容に興味が持てないということともちがう。
ただ、それは私のいる世界の話ではないのだ。歴史に興味がないと言うこととも違う。これまでに語られてきた歴史の中に、語られていない存在があるはずだということのほうに興味がいってしまう。そういうのは近視眼的というのだろうか。どうか。
例えば私が好む映画というのは、そのほとんどの物語が個人の物語であったりする。人々が、全体で、どう動いた、ということを理解しようとするとき、どうしてもそこにある個々人の事情、及び属さなかった人のほうに目がいってしまうことと、似ているかもしれない。
さらに例えば、野球観戦をしているとする。自分の好きなチームを応援しているとき、同じチームのファン同士が味方に思えたりする。楽しい。ライブでもいいや。とにかく集団で喜んだり悔しがったりするのは楽しい。しかしその好き方は統一されたものではなくて、個人がそれを好きになり、たまたま集合となっただけの話だ。
それを歴史として集合で語る視点に対する違和感みたいなものは、なんなんだろうなと思う。言葉を知らなさすぎることへの言い訳かもしれない。そしてこの違和感を私は初めて発見(確認)したので、この本を読んで良かったなぁと思っている。
これらは全て「ニーチェ入門」とは関係のない話だ。たぶん。