絵描きの植田さん/いしいしんじ・植田真

絵描きの植田さん

絵描きの植田さん

いしいしんじさんの中編小説に、植田真さんの絵が挿入された作品。挿絵ではなくて、共作という形だと思います。絵と、文章と、どちらが先に描かれたのかが気になる。
ストーリーはシンプルで、現実的な部分が多く、いしいしんじさんの作品の中ではちょっと異色かもしれない。物語の展開の仕方は、あまりにも正攻法だったので、正直なところ、ちょっと物足りなく感じました。けれど、とてもやさしい、繊細な文章はいしいさんらしく、物語の中に漂う静かでゆっくりとした時間を楽しむことができた。
植田真さんの絵を、主人公である植田さんと重ねて読んでしまうとちょっとイメージと違う気もしたけれど、とても素敵な絵なので、なんども見て楽しめる本だと思います。
物語の舞台が雪に覆われた町で、本の作りも雪のような白を基調にしている。そういう凝り方も、いいなぁと思いました。本から雪の匂いがしそう。ちなみに装幀は鈴木成一デザイン室。またかー。
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植田さんの雰囲気に、小川洋子さんの「ブラフマンの埋葬」を思いだしたりしました。

 柴田元幸トークショー@青山ブックセンター


友人に誘われて、仕事帰りに「アメリカン・ナルシス」刊行記念のトークショーに行ってきました。「アメリカン・ナルシス」はまだ読み切っていない、というか読む前に読まなくちゃという本が多いので読めるとこから読んでいる感じなのですが、トークショーの方は柴田先生らしい、わかりやすいお話で楽しかったです。
話題の中心となったのは「アメリカン・ナルシス」の主題でもある、「アメリカ文学における19世紀と20(21)世紀の違い」ということでした。

19世紀の文人たちの文章を読んでいて、何よりもまず感じるのは、自分が世界とじかにつながっているのだという感覚である。(東京大学出版会の会誌より)

ということを、メルヴィル「白鯨」のイシュメール、トウェイン「ハックルベリーフィンの冒険」のハックルベリー・フィンらを例に挙げて話し、現代の文学では「世界」(社会ではなく)となじむことが難しいのではないかと繋げていました。確かに、現代の「世界」は社会と密接にあるという意味では、自己の中に潜り込んでいったときにあるのは「空洞」であったり柴田先生がおっしゃるところの「ポップカルチャーにまみれた自己」であったりするかもしれない。この辺は興味があるのでゆっくり考えてみたいと思うのですが、それよりも会場に居た方の「現代の作家で新しい世界とのつながり方を描いている作家さんは誰がいますか」という質問に対し、川上弘美さんとケリー・リンクを挙げていたので、なんだか腑におちた気がした。
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しかし、今回私にとって特に面白かったのが、柴田先生が「アメリカン・ナルシス」で取りあげることができなくて残念だった、ということで話して下さった、ナサニエル・ホーソーンの話。
ホーソーンは短編が良いです。長編は好きじゃない」という言葉に、「緋文字」しか読んだことがない私はがっくりきたのですが(私は「緋文字」もとても面白かった)、ともかく、ホーソーンの日記についての話が面白かった。
とりあげていたのは「フィラデルフィア92番通り」という文章についてで、ホーソーンがイギリスで領事をしていた際の話だった。記憶で書いているので正しくない部分があると思いますが、それはこんな感じのお話だった。
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毎日のように領事館へやってきて、「私は本当はアメリカの生まれで、フィラデルフィア92番通りに住んでいたんだ。でも帰りたいのに帰れない」という趣旨を訴える老人について、ホーソーンは日記の中で「彼はアメリカに居たことがあるとは思えない、一般的なイギリスの浮浪者だと思われた。しかし、彼がもし本当にフィラデルフィア92番通りで過ごしたことがあるとしたら、なんと奇妙な運命か」と書いている。しかし後日その日記が「Our old home」という本にまとめられた際に、ホーソーン「彼はアメリカに居たことがあるのだろう」というニュアンスに書き換えているのだという。柴田先生いわく、「ホーソ−ンは日記(メモ)を書いた段階で無意識に、その老人が「異国の人」であったほうが、物語として正しいと判断したのだろう」と話していた。
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そのように、目の前の出来事から飛躍して、空想することのできるところが、私は人間の想像力の自由さだと思う。
そういうことを考えるのはほんとうに楽しい。でも無意識に物語に「正しさ」を求めてしまうこともあるよなぁ、なんてことを考えてとても興味深かった。
トークショーの最後にはホ−ソ−ンの「死者の妻たち」という短編を朗読してくださって、これもとても面白かった。この小説にあるような「しかけ」は文章で表現する際の醍醐味の1つのような気がする。
今日話題に出て来た中で、1番惹かれたこれから読んでみようかと思います。

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻

 境目

六月が終わってしまった。一年が半分終わってしまった。
仕事をしたり、本読んだり漫画読んだりいろんなところに行ったり、それなりに毎日いろんなことがあるけれど、「この半年にあなたは何をしましたか」と言われても、これをしましたと言えることはあるんだろうか。無い様な気がする。そして年末にも同じことを思っている気がする。
なんだか行動パターンが決まってしまっているのか、同じことを繰りかえしてるつもりはないのに、一定の周期ごとに、自分はいつまでも同じことをしている、と思ってしまったりする。そして、そのパターンが変わるときっていうのは確実にあって、その切欠ってのはだいたい、今までを振り返ってみても、環境の変化だ。
その環境という要素の中にはもちろんその時期に多くの時間を一緒に過ごしている人の存在があったりする訳なんだけど、環境が変化した後も、その人に会えばいつでもその時のことを今のように感じられるかといえば、そんなことはなくて、でもごくたまに、あの時を「今」みたいに感じられる時っていうのもあって、そういう瞬間には、懐かしいという気持ちよりも、ただ楽しかったり、嬉しかったりする。
でもそういう人にはいつでも会えると思って会わなかったりしがちだ。
もう会えなくなってしまった人もいるのに、それで後悔もしたくせに、私はまだ会わなかったりしがちなので、下半期は会いたいなと思った人に出来るだけ会いにいこうと思った。