柴田元幸トークショー@青山ブックセンター


友人に誘われて、仕事帰りに「アメリカン・ナルシス」刊行記念のトークショーに行ってきました。「アメリカン・ナルシス」はまだ読み切っていない、というか読む前に読まなくちゃという本が多いので読めるとこから読んでいる感じなのですが、トークショーの方は柴田先生らしい、わかりやすいお話で楽しかったです。
話題の中心となったのは「アメリカン・ナルシス」の主題でもある、「アメリカ文学における19世紀と20(21)世紀の違い」ということでした。

19世紀の文人たちの文章を読んでいて、何よりもまず感じるのは、自分が世界とじかにつながっているのだという感覚である。(東京大学出版会の会誌より)

ということを、メルヴィル「白鯨」のイシュメール、トウェイン「ハックルベリーフィンの冒険」のハックルベリー・フィンらを例に挙げて話し、現代の文学では「世界」(社会ではなく)となじむことが難しいのではないかと繋げていました。確かに、現代の「世界」は社会と密接にあるという意味では、自己の中に潜り込んでいったときにあるのは「空洞」であったり柴田先生がおっしゃるところの「ポップカルチャーにまみれた自己」であったりするかもしれない。この辺は興味があるのでゆっくり考えてみたいと思うのですが、それよりも会場に居た方の「現代の作家で新しい世界とのつながり方を描いている作家さんは誰がいますか」という質問に対し、川上弘美さんとケリー・リンクを挙げていたので、なんだか腑におちた気がした。
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しかし、今回私にとって特に面白かったのが、柴田先生が「アメリカン・ナルシス」で取りあげることができなくて残念だった、ということで話して下さった、ナサニエル・ホーソーンの話。
ホーソーンは短編が良いです。長編は好きじゃない」という言葉に、「緋文字」しか読んだことがない私はがっくりきたのですが(私は「緋文字」もとても面白かった)、ともかく、ホーソーンの日記についての話が面白かった。
とりあげていたのは「フィラデルフィア92番通り」という文章についてで、ホーソーンがイギリスで領事をしていた際の話だった。記憶で書いているので正しくない部分があると思いますが、それはこんな感じのお話だった。
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毎日のように領事館へやってきて、「私は本当はアメリカの生まれで、フィラデルフィア92番通りに住んでいたんだ。でも帰りたいのに帰れない」という趣旨を訴える老人について、ホーソーンは日記の中で「彼はアメリカに居たことがあるとは思えない、一般的なイギリスの浮浪者だと思われた。しかし、彼がもし本当にフィラデルフィア92番通りで過ごしたことがあるとしたら、なんと奇妙な運命か」と書いている。しかし後日その日記が「Our old home」という本にまとめられた際に、ホーソーン「彼はアメリカに居たことがあるのだろう」というニュアンスに書き換えているのだという。柴田先生いわく、「ホーソ−ンは日記(メモ)を書いた段階で無意識に、その老人が「異国の人」であったほうが、物語として正しいと判断したのだろう」と話していた。
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そのように、目の前の出来事から飛躍して、空想することのできるところが、私は人間の想像力の自由さだと思う。
そういうことを考えるのはほんとうに楽しい。でも無意識に物語に「正しさ」を求めてしまうこともあるよなぁ、なんてことを考えてとても興味深かった。
トークショーの最後にはホ−ソ−ンの「死者の妻たち」という短編を朗読してくださって、これもとても面白かった。この小説にあるような「しかけ」は文章で表現する際の醍醐味の1つのような気がする。
今日話題に出て来た中で、1番惹かれたこれから読んでみようかと思います。

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻

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