ヴィトゲンシュタイン入門/永井均

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)

読みはじめてから何度かその内容について触れてきましたが、ようやく読了しました。
もとはといえば『論理哲学論考』に挫折、というかわからない部分が多すぎて梯子を探すかのように読みはじめた本だったんだけど、とても面白い読書だった。
ただ、この本は、ヴィトゲンシュタインという人の哲学について書かれた入門書であり、長い年月にかけて行われた哲学に触れられている。章立てとしても「生い立ち」ではじまり「最期」に至る。だからこそ、その流れに圧倒されてしまって、正直今は面食らっているままでいます。それでもはっきりといえるのは(こういう感じ方をすることを嫌悪する人もいるかもしれないけれど、それでも)私はこの本を読んで、感動してしまったということだ。
ここで私が名前をつけた「感動」という言葉には、二つの側面がある。
まず一つは、ヴィトゲンシュタインという人が残した言葉が映すものに対して。特に中期〜後期とされる部分での「言葉」についての流れに、まるで自分の言葉を疑い続けることでその輪郭を押し広げていくような葛藤を見ることができて、興奮した。そしてそれはもちろん、初期とされる部分を読んだ後だからこそのことなんだ。
そしてもう一つは、このように私が読む、ということで何かを思うということが、永井均という人がヴィトゲンシュタインの書いたものを読むことの後にあるということだ。
私はこの本を読んで、(太字部分は傍点*1/以下同様)

『論考』の世界は、この私の存在という(世界の偶然とは次元の違う)もう一つの偶然によって支えられているのだ。もちろん読者はそれを一般的な先験的=超越論敵自我として読む。それ以外に読みようがないのだから、それは当然のことである。だが、著者にとってはそうではない。(p81)

という「著者にとってはそうではない」という部分こそが、『論考』の核であり、後期の章にて引用されていた

「考えをかえてはならない。根本的であるとはまさにそういうことなのだ。」/『確実性』(五一二節)

という部分の根本的なことなのではないだろうか、と思った。その後に永井均さんが『彼がしているのと同じ種類の他のことを人がするということに、彼は本質的な点で意義を認めることができなかったのではないだろうか』(p201)と書いているところ、に見える何かが、私が『論考』を読みながらずっと感じていたことに近いような気がする。すごくばかばかしい言葉を使えば、それは「疎外感」に近い感覚だった。その唯一性を心強く感じるとともに、それを私の言葉に当てはめて考えることを、拒絶されているような気がしたのだった。
そのように、何にでも個人的な感情を伴って読んでしまうのは私のわるい癖で、今のところどうしようもないのだけど、でもそれは「当然」のことでもあるのだ。でも、と言いたい部分があるのはまた別の話。
ただ、この本は明らかに永井均という人が、ヴィトゲンシュタインの書き残した言葉を読むことで書かれたものであるわけです。そのことに、私は感動してしまった。

もし「信じている」という語をこのように超越論的(先験的)に使うことが許されるならば、そのとき、それを「もう一つの語りえぬもの」に対して超越論的に使うことも許されているはずである、と。(p205)

この言葉に至ったときに、安心してはいけない、と思いつつ、なんだか嬉しかった。ああ、ばかみたいなことしかいえないのが歯がゆいですけど、これってすごく重大なことだと思う。
この言葉を聞いたら、ヴィトゲンシュタンはどう答えたのだろうか? と、つい想像してしまう。
* * *
ここに感想として書いたのは、あくまでもこの本を読んだ私の感想であり、そこに書かれていたこととはまた違います。あまりにも安易な感想なので、誤解を招くのが少し恐いですけど、私はここに書かれてた言葉を、もう少し自分の言葉で考えてみたいと思った。わくわくする(と同時にいろいろへこむ)本でした。
とりあえず、「会話の正解を想像することと俯瞰は違うかも」という文で考えてたことは、第5章「言語ゲーム−後期ヴィトゲンシュタイン哲学」にて書かれていた『少なくとも日常のなめらかな言語実践においては、誰もが意味盲だからである』というとこがちょっとヒントになるかもと思ったので、この辺について書いてある本をもうちょっと読みたいなと思ってます。
それを自分の言葉として理解したいと思うことには理由を必要としてないのがまず一番の知りたいことでもあるんだけど、それは私が初めて自覚的に触れた哲学の本である、永井均さんの「〈子ども〉のための哲学」(id:ichinics:20050420:p3)にあった

でも、水中に沈みがちな人にとっての哲学とは、実は、水面にはいあがるための唯一の方法なのだ。

という言葉で説明できるだろうな、と小さく付け加えておきたい。ほんと小さく、ささやかに。

*1:もしかしたら傍点て打てるのでしょうか

 PLUTO/浦沢直樹

PLUTO (3) (ビッグコミック)

PLUTO (3) (ビッグコミック)

面白いです。「MONSTER」でも「20世紀少年」でも浦沢直樹さんは視点を移しながら物語を進めていくけども、それはこの「PLUTO」でも同じで、この巻ではKR団というロボット人権法廃止を唱える極右集団に属する男を視点の中心に据えている。
ところで、モンスターがかなり原作に忠実なアニメ化だったからか、PLUTOを読んでいても、いつのまにかコマからアニメに見えてくる。アトムの声とか聞こえるようで、そういうキャスティングとか妄想するのがまた楽しいです。楽しいんです!

 新世代アニメーションまつりと私の好きなアニメーション

そうそう、アニメといえば、下北のトリウッド(http://homepage1.nifty.com/tollywood/)でやる「新世代アニメーションまつり」に行こうと思ってます。ラインナップはこんな感じ。

「はなれ砦のヨナ」「カクレンボ」「惑星大怪獣ネガドン」「まかせてイルか!」「ほしのこえ」「雲のむこう 約束の場所」

もう見たのもいくつかありますが、一日中入り浸ってみたいと思っている。とくに「まかせてイルか!」は以前メディア芸術祭で半分くらいしか見れなくて、いつか見たいと思ってたので嬉しい。それからカクレンボがまたスクリーンで見れるの嬉しい。見た時の感想(id:ichinics:20050503:p1)は、今まで書いてきた感想の中でもかなり愛情のコントロールができてないもののひとつだと思うのですが、なんと言うか、ああいうのがまさにツボなのです。九龍城とか、藤原カムイさんの「福神町綺譚」*1とか、複合住宅とかパノラマ図とか地図とかが好きすぎる。

私の好きなアニメーション

そういう意味で、私がアニメを見るときに、気にしている点の一つが世界観とそれにまつわる美術/作画だったりします。もちろん、物語が大切なことはいうまでもないのですが、その物語がどこで起こるか、という「設定」に私の興味は集中する傾向にある。もっと風景が見たい! と思う。ちなみに、それを最初に自覚したのは、押井守監督「劇場版パトレイバー」だった。
次に気になるポイントは演出で、アニメーションの自由さ(特権といったほうがいいかな)というのは、まさにこの演出に凝縮されている気がする。それは決して奇抜な演出を好むということじゃなくて、その世界に合った演出がされているかどうかということ。だからわりと制作者で見るアニメを選ぶ傾向にある…なんていうと偉そうだけど、それはまあ、映画見る時に監督で選ぶのと同じことで、一般的な選択基準の一つだと思う。もちろん原作が好きだから、とかで見ることも多いけど。
という訳で「鉄コン筋クリート」に期待*2しまくっています。楽しみすぎる。

*1:福神町奇譚でキーワードがあった

*2:アニメフェアで見た予告のこととか → id:ichinics:20060326:p1