古川日出男トークショー@青山ブックセンター

ABCで行われた、古川日出男さんのトークショー(『ルート350』の刊行記念)に行ってきました。行って良かった!
わりと最近まで作家(小説家)さんのサイン会とか、講演会って、自分の中にある小説のイメージが、何かかわってしまいそうな気がして、縁遠かった。同じ理由でエッセイもあんまり読まない方だったのだけど、でも最近は読書をしていて「どう読めばいいのやら」と戸惑うことが減ったというか、自分の読み方で(特に小説は)いいのかなぁと思えるようになってる。という訳でABCのイベントはかなり活用させていただいてるのですが、今回の古川さんの場合は、行く前から、大丈夫に決まってる感じがしてて、そして実際に話を聞いてみたら、やたらと感動してしまったんでした。
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前半の仲俣暁生さんとの対談でまず「ルート350」から想起されるアメリカのハイウェイとか、そういう「みち」についての話があって「車や電車での旅におけるサウンドトラックとなる本をを書いている。サウンドが文体であり、風景が物語だ」と語ってらしたのが*1、まさしく古川日出男作品を言い表してるなと思った。ってまだ私は全部の作品読んでないのでおこがましいんですけど、なんというか「書く」ということにたいして、きちんと客観的な視線を持ってる方なのだなという印象だった。そして、書くことへのストイックさと、読者への寛容さが同居しているような気も、して、そこにとてもひかれた。
そして手でなくてタイプライター(およびキーボード)で書くことについての話がまた面白くて、タイプライターも楽器も車も、自分の延長線上にある「自己拡大マシン」のようなものだ、とおっしゃっていたのもなるほどと思った。手書きのスピードは、やはり遅い。言葉がのっているときに、手書きではそれを捉えきれない、というその感覚も、わかるような気がした。もちろん、一文字一文字を矯めつ眇めつしながら書くやり方の作家さんもいるだろうけれど、古川さんの文章は、あの疾走感こそが命なのだと思う。文章にも、その言葉をとらえようとする、焦燥のようなものが、かいま見れる気がするし、と言ったら図々しいかもしれないけど、それは私が古川さんの作品に感じている魅力の一つでもあるのだ。つまり、読書がまるで、ライブのようで、それに踊らされるという感覚。
そして「書き方」についての質問で、エディタで横書きで書きながら別のブラウザで縦書きに変換しつつ書くという話をされていて、これも「おおー」と思いました。どのフォントで読んでも、縦でも横でも格好の良い「のれる文章」。のるよ!
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でも今日の一番の感激は、古川さんによる朗読だった。初めて発表され、そして今後も発表されることはないだろう、とおっしゃっていたそれを、会場にきた人たちのために朗読してくれたのだ。その読むリズム、呼吸、全てが私がそれを読んでも同じように息継ぎをするだろう、と思ってしまうくらい、しっくりきて、耳に心地良い。けれどその内容は、じんわり沁みるボディブローのようだった。
『ルート350』を読んだときに、私は『物語卵』と『一九九一年、埋め立て地がお台場になる前』の間に、何かがあるような気がしてて、感想ではイメージの「統合」の仕方についてしか書いていないけど、そこをうめるものが、これだったのかもしれない、と今は思う。私も見た。ただ見ていた。何回も繰り返される、□□のお話。□を埋める言葉が、イメージでしか浮かばない。でも、私は、うるう日から抜けられるんだろうか、もしかして眠り続けてるんだろうか。そんなことを考え、ちょっと鳥肌が立つ。
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私はほんと、一人でいるとやたら感激屋なんだけど、その朗読された物語が、この耳で聞く一回きりのものであるということにもまた感動していた。すごい。何がかわかんないけど、すげぇ。かっこいい。しびれる。
そしてサインは二冊してもらえると聞いて、会場で『LOVE』を買った。ゲンキンだなと思ったけど、でもいいんだ。ミーハーだ。並んでみてたら、一人一人に違うサインをして下さってたみたいで、私のも二冊とも、その二冊のためのサインをして下さって、なんかものすごくうれしい、と思った。
サインしていただくときに、何か朗読の感想を言いたいと思っていたのに、結局は「これからも作品楽しみにしてます」しか言えない自分がふがいなかったですけど、でも握手してもらって、手があったかいなぁ、とか思ってまた感激した。
そして、家に帰ってきて、『LOVE』にもらったサインの文字が、会場では『LOVE』に見えてたのに、実は『LIVE』でまた感動する。わー!

古川日出男作品感想など

  • 『ルート350』id:ichinics:20060502:p1
  • 『ロックンロール七部作』id:ichinics:20060127:p1
  • 『ベルカ、吠えないのか?』id:ichinics:20060223:p1
  • 『二〇〇二年のスロウ・ボート』id:ichinics:20060324:p1

*1:記憶で書いてるのでこの通りじゃないですが、ニュアンスは近いと思います

 靴を一日持ち歩き、持ち帰る

13時からのトークショウに間に合うように家を出て、ABC行って、青山でランチでも、と思ったけどなんか頭の中がそんな具合ではなく、古川さんのこと考えながらボーっとしつつ電車に乗る。ヤバい人みたいですけどヤバい人です。にやにやしていたと思う。
そして会社について、仕事。意外なほどさっくりと終了し、ネットで見たかった映画を、と思って調べてたら、メルキアデスエストラーダが終わっていて大ショック!あああ、恵比寿じゃなきゃ会社帰りでも行けたのに、と思いつつ、どこかで再上映してくれることを願い、ブロークンフラワーズ見にいくことにする。
ご飯食べながら本読んでじっくり時間を潰した後、買い物とかして映画館へ。
そんで今この日記を書きはじめてる訳ですけど、はてなのキーワードからだけでも、ABCのトークショー行かれてた方が数人いらして、びっくり。世間って狭い。ってなんか違うか。でもなんか、不思議だなぁ。
で、トークショウの感想書こうと思って鞄からサイン本取り出したら、今日修理に出そうと思って持っていっていた靴を持ち帰ってきてしまってることに気付いた。道理で鞄が重いと思った。

 ブロークン・フラワーズ

監督:ジム・ジャームッシュ
見にいってきました。新宿にて。
ビル・マーレイ演じる、女たらしの中年男、ドンの元に届いた一通の「ピンク色の手紙」が謎をよび、友人ウィンストンにのせられてかつての恋人たちを訪ねあるくというロードムービー
とにかくドンはずっと、見てるこっちが「しょうがないなぁ」といいたくなってしまう感じなのだけど、きちんと「たらし」の片鱗もある。でもなんか可笑しみもある。そんで、どうみてもよれよれなんだけど、あー、実際モテるでしょうとも思う。なんだろ、ほっとけない感か。
手紙の「謎」自体は、あれ冒頭のワンカットでネタばれしてると考えていいんだと思うんですけど、それでもなんか、浮き草みたいな自分の人生に気付いてどっか捕まりたくなっちゃう、みたいなラストシーンの「ぐるり」はこの物語で唯一(たぶんね)の切実さを伴った場面ともいえると思います。
しかしジム・ジャームッシュの特徴でもあるあのフェイドアウト/フェイドインで場面をつなぐやり方は眠気を誘うようで、会場からはいびきも聞こえてました。
個人的には、うーん、面白かったんだけど、ひと味足りない感じがした。総括する台詞がもしかして、ラストのあれだったのかと思うのですけど、それはちょっと、というかんじ。でもその「しょうもなさ」がこの映画かなぁとも思うのだけど。
ところで作品中で「ドン・ジョンストン? ほんとに?」と聞かれ「Tが入る」と答える場面が数度あったのだけど、あれどういう意味なんだろ?(←人気刑事ドラマ「マイアミ・バイス」の俳優と一字違いということらしい)