『これがニーチェだ』を読む/その1

つまるところ、いつの日にか私は、ただひたすら肯定する者となりたいのだ!(『悦ばしき知識』)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

これがニーチェだ (講談社現代新書)

この前友人と話してて、「ルサンチマン」という言葉の、ニュアンスはわかるけど意味がわからない、ということに気付いたので、何か読んでみようと思いたち、永井均さんの「これがニーチェだ」を読みはじめました。で、もうかなり読み進めてるのですが、すごい面白いです。刮目しまくり。すごいすごいといいながら読んで、誰かにいいたい、と思うんだけど、なんかいっちゃいけない感じもするので(?)ネットがあって良かった、と思った。ただ、本来の目的である「ルサンチマン」納得には至れそうになく、まだなんとなく、常に裏返り続ける感じかと思ってるくらいなんだけどそれはニヒリズムの方かもしれない。その辺はまだ微妙ですけど、まあそのうち理解したい。
ともかく、ニーチェという人の考えていたことを、この本を読むことでかいま見て、彼の言葉を全て受け入れることはできないと思うけど、だからこそ、響くところがあると感じた。影の存在を感じつつも、光に目を奪われる感じ。なんというか、血が通っているなぁ、なんておこがましいことすら思った。
何度も繰り返しになるけど、私が「哲学」に「哲学」として興味を持ったのはつい最近のことだ。そして「SF小説」にジャンルとして興味を持ったのもつい最近。そしてこのふたつをほぼ同時に知り続けているのは、私にとってとても幸運なことだと思った。もちろんSFだけではなく、全ての物語には哲学の要素があると思うのだけど、特にSF小説を読むときのイメージの仕方は、哲学にまつわる本を読んでいるときのイメージに似ているところがある。なんでだろうな? 世界を世界として再構築している感じ、だからだろうか。そのへんはまだ分からないけど。ともかく。
これまでいくつかの哲学書(ほとんど永井均さんのものだけど)の感想を書いてきたけど、一つの文章にまとめるのに苦労するので、今回は一章づつ別エントリで感想かこうかなと思った。そして今日はいきなり五章から。

 『これがニーチェだ』を読む/その2

第五章『反キリスト』のイエス像と、ニーチェの終焉

この本を読んでいると、ニーチェの生きた時代、国、環境において、キリスト教こそが道徳であり倫理だったのだろうと痛感する。そしてニーチェはきっと、そこに疑問を投げかけ続け、疑い続けていたのだと思える。それは現代の、しかも日本に暮らす私が想像するより、ずっと重いことだっただろう。でも、「疑うこと」に罪の意識を感じるということ。それはキリスト教においてだけでなく、いま、この世の中における「勝てば官軍」の後にあるものもすべてにおいて、疑うことが禁忌とされている、ような気がするからじゃないだろうか? でもなんで? そう考え続けていたのがニーチェであり、その罪の意識こそが、かれの文章、そしてそこから伺える思考に悲観的色合いがにじむ理由のような気がする、といったら言い過ぎかな。とりあえず私はそう感じている。

「このとき以来、私のすべての著作は釣り針となった。たぶん、私は誰にも劣らぬ釣り上手だ。……何も釣れなかった。だが、それは私のせいではない。魚がいなかったのだ……」p152/『この人を見よ』

強調部分は原文にて傍点をふってある箇所です。以下の引用も同様。
この部分だけ読んでみれば、それは傲慢な物言いにも読める。しかし、それでもニーチェの言葉が(たとえそれに共感しないとしても)価値のあるものである理由は、彼に対して最も痛烈に批判を投げかける者が彼自身だから、なのだと思う。そうやって、自らの容赦のない批判の目にさらされながら、しかしそれをもねじ伏せて生み出されたもの、それを私は信頼に足るものだと感じる。その過程については、私が想像するしかないにしても。
そして「牧師の子」として生まれたニーチェは、「反キリスト」の中でこう書いているという。

私はキリスト教の本当の歴史を物語る。すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤解である。――根本においては、ただ一人のキリスト教徒がいただけであり、その人は十字架上で死んだのである。p154/『反キリスト』三九

ここを読んで、私は目から鱗が落ちたような気がした。
私の親戚には牧師さんがいて、私も幼い頃は教会に通っていたので、キリスト教についてはある程度の知識があり、その考えに共感している部分ももちろん、ある。ただ、ずっと感じていた違和感に、なんとなく新しい光をあててもらったような気になった。
この前書いた「ただ、私が不思議に思うのは、自分の中にある何か、ではなくて、外側にあるものを信仰しようとすること、というか、他者のイメージを受け入れるというやり方、だったりする。(id:ichinics:20060504:p1)」というのは、まさにそれだ。ううん、うまく言えない、し、なんとなく認めたくないのだけど、もしかして、何かを完全に信仰するということは、「疑わない」ということなのではないか。そして疑うという可能性すら忘れ去るということ。だからこそ、誰かがそれを「真似る」ことには嘘(演技)が混じってはいないか、ということ?

私が嘘と呼ぶのは、見えるものを見まいとすること、あるいは見えるとおりには見まいとすることである。p162/『反キリスト』五五

これは「思考停止」しないとはどういうことか、にもあてはまる言葉だと思う。でも、ここでも反転し続けている。ううん、そもそも疑うということは、善でも悪でもない。その境地にまず立つこと、地平を開くこと、でもそこに立つというのはどういうことなんだろう?

ちょっと発見したこと

ルナンがイエスを「英雄」という類型で捉えたのに対し、ニーチェはそれを批判して、イエスを「白痴(idiot=語源的には「自分だけの世界に生きる者」)という類型で捉えた(二九)。
(略)
だが、その根源にあるのは、「どんな接触をも痛ましいほど深刻に感受するがゆえに、およそもう『触れて』ほしくない」(三〇)と感じるような、極度に敏感な感受性の型値なのである。(p156)

このidiotという言葉は古い版では削除されてたらしいのですけど、この言葉はすごい。
そして(またですが)スタージョンの『人間以上』第一章「とほうもない白痴」で描かれていた白痴の着想は、この言葉にあったのではないかと思った。

かれは、どこかひとりはなれて、言葉と意味をつなぐ小さな環が切れてぶらさがっている世界のなかに住んでいた。彼の眼はすばらしくて、笑顔と怒りをすぐに見わけることができた。だが、自分自身は笑ったことも怒ったこともなく、相手の気嫌の良し悪しもわからないという、感情移入に欠けた生きものだったから、そういったことはなんの影響もおよぼさなかった。/『人間以上』p10

そう考えてみると、あの物語で描かれていたことを、もう一度捉え直すことができそうな気がして、楽しい。わー!
『人間以上』の感想 → id:ichinics:20051115:p1

 ゲゲゲの鬼太郎 実写化について

ゲゲゲッ!ウエンツ鬼太郎…来年4月、初の実写映画化
http://www.sanspo.com/geino/top/gt200605/gt2006051001.html

サンスポの写真がすごい。「ゲゲゲの鬼太郎」の鬼太郎は私の初恋のひと(ひと?)であることは前にも書いたことあるような気がするんですけども、このサンスポの写真【銀髪で左目を隠し、イケメン風の鬼太郎】は、風っていうかまんま美形だと思います(すみません実際ウエンツさんの素顔良く知りません)が、 鬼太郎は少年で、戸田恵子さんの声っていう刷り込み(その世代なので)があるので、大人な鬼太郎って時点でなんか戸惑います。が、ブレイブストーリーの予告でちらっと聞いた声が良かったので、イメージ的にはなんとなく想像つく気もする。が、この顔で妖怪アンテナ立つって状況は冗談にしか思えない。
でも、このビジュアルで目を奪われるのはむしろねずみ男。【ねずみ男そっくりに変身した】 とあるんですが、この写真は、どうみても、顔になにか書いてあるのが見えるというか…とりあえず、そっくり、ではないと思うというか、なんかすごいです。
でも(いろんな意味で)楽しみです。

その他キャスティング妄想

猫娘
宮崎あおいちゃん希望ですが無理っぽい。木村カエラさんとか、加藤ローサさんとか、ハーフな方だとウエンツさんとのバランスも良いかと思います
砂かけばばあ
室井滋さんか、もたいまさこさんやってくれないかなぁ
子泣きじじい
竹中直人さんてもうやってたっけ?「妖怪大戦争」の時のイメージで阿部サダヲさんでもいいなぁ。
ぬらりひょん
どうせぬらりひょんが悪の親玉役だと思われるのですけど、これどのくらい水木しげるビジュアルにあわせるかによって全然違いますよね。主人公にあわせて美系でいくとかいろいろパターンがありそうですが、キャシャーンの時の唐沢さんが脳裏をかすめたのでそれか、松尾スズキさんとかでも面白そう。でも悪役キャラじゃないかな。

目玉のおやじやぬりかべや一反もめんはCGで声優さんかな。