こどもと演技

帰り道、図書館に寄る為にいつもと違う駅で降りた。たくさんの人が降りる駅で、改札口はとても混雑していた。私もその流れに沿って歩いていると、すぐそばを数人の女の子が駆けていった。いろんな人にぶつかりながら、なにかから逃げるようにして笑いながら駆けていく。日能研のかばんをしょっていたから、小学生だろう。その笑い方と、少し聞こえた言葉の断片と、身体をもてあましているような走り方を見て、ふとあのくらいの女の子って、きっと日々を周囲の雰囲気、という「設定」の中で生活してるんだろうなと思った。それもほとんど無意識に。
何かから逃げてる振りとか、勉強してる振りとか、仲がいい振りとか、それが嘘だという訳ではなくて、その「設定」にあてはめて動いているように見える。自分の属してるカテゴリを認識して動いてる、と言った方がいいかもしれない。なんだか、誰かに見せるために行動し、行動するなかでまた新たな設定を身に付けていくような感じ。今日の子たちは、聞こえた話からすると、塾で同じクラスの男子から「はやく逃げなきゃ」というのがその設定だったみたいだ。でも、もちろん逃げなきゃいけない理由なんて無いだろうし、その男子が嫌いなんだとしたらそんなあからさまに逃げるのも大人なら「失礼」とか思ってしまうと思う。でもそこで皆で走って逃げる、ということが、彼女たちの「仲が良い」ということのアピールになっているんだと思った。
例えば中学生くらいになって洋楽を聴きはじめたり煙草をすいはじめたりブコウスキ−読んでみたりゴダールの映画見てみたりする切欠っていうのも「それを好きな自分を誰かに見て欲しい」というとこがあるだろうし、それによって他者にアピールしたい自分がある場合が多いんじゃないだろうか。(もしかしてそういうのを中二病っていうのかな?)
実際、私にもそういう時期はあって、私の場合はまあ洋楽だったり本だったりしたけど、もっと具体的に言えば1人で図書館行ったり1人でライブ行ったりする自分を誰にともなくアピールしてたんだと思う。高校生の頃には1人でビースティ見にリキッドいったりミロスガレージ行ってみたりしてたよ。うわ懐かしい。いきがってました。正直、楽しいんだかどうなんだかよく分からない時もあった。1人も好きだけど、ライブは皆で行った方が楽しかった。でも、無理してる部分はいつかやめるだろうし、そうしたら最後には好きなものだけが残る。無理しなくなる。その頃の自分の思考回路を思いだすと恥ずかしくて狂い死にしそうにもなるけど、今思えばそういう一種の演技によって得るものっていうのはとても多かった。だから、むしろその演技の蓄積によって、人格が構築されていくって部分もあるんじゃないかと思う。
ともかく、今日の光景に話をもどすと、その走っていく女の子の中の1人が、明らかに背後の男の子を意識していたのを見て、きっとその子は彼のことがちょっと好きなんだろうなということを感じた。でも彼女にとっては連れの女の子達との設定のほうに比重が傾いている。まあ仲間はずれになりたくないというのももちろんあるだろうけど、いつか、その設定から逸脱する時に、その女の子は何かを選びとるんだろうなと思う。そこにもまた新しい設定があるのかもしれないけど、(たとえばその男の子のことが好きな自分、とか)そうやってどんどん自分で「自分の好き嫌い」を見つけるようになって人となりが形成されてくのかもなあなんて事を考えた。
たぶん今、永井均さんの『〈子ども〉のための哲学』という本の「〈ぼく〉って何?」という部分を読んでるからそういう思考回路になったんだと思います。万年考え事ブーム。