批評することの難しさ

いつも拝見しているkissheeさんの文章と、そちらで紹介されていた dkさんの文章についていろいろ考えさせられる部分があり、考えてみたことを書いてみた。

http://d.hatena.ne.jp/./kisshee/20050607#p1 kissheeさん
http://replica-love.jp/sayonana/archives/000493.html dkさん
http://replica-love.jp/sayonana/archives/000513.html dkさん
酷評するヤツに守ってもらいたいルール - LAST GIGS ozricさん

ネット(匿名で)酷評することについての議論で、もとになっているdkさんの文章は5/14のものなのですが、どの文章もとても興味深く読ませていただきました。特にkissheeさんの書かれた文章には共感する部分が多くありました。感想が長くなってしまったのでちょっと整理して書きます。

まず、批評にはバックグラウンドが必要だと思う

私は基本的に、批評というものは、知識がある、と認識されている人がすることだと思っています。これは多分ozricさんの言われている【「何か作品に対して批評するときは自分の好きなものを列記する」というルール】に近い部分があるのではないかと思いますが、つまり、その人のこれまで批評してきたものについて知っている人が読めば、酷評もまた一意見となるだろう、ということです。これは例えば友人と会話をしている時も同じことで、相手の人となりを知った上での酷評ならば、その意見がどういうバックグラウンドから立ち上がって来たものかも想像しやすいのではないでしょうか?
ただし、私はozricさんの挙げた「好きなものを列記する例」にはちょっと疑問を感じてしまいます。私が「批評というものは、知識がある、と認識されている人がすることだ」と思うのは、例えば、ジャンルの違いのようなものです。音楽で例えるなら、普段、ソフトロックを中心に聴いている人がハードロックを聴いて発した「酷評」と、ハードロックに造詣の深いということを周囲に認知されている人が発する「酷評」とでは意味合いが全く違います。

批評を目にするタイミングについて

私がこの場所で書くものは、批評というよりは感想文です。ここに日記を書くことで、1番楽しみにしているのは、例えば本を読んで、感想を書いて、その後にアマゾンのISBNリンクからいろんな人の感想を読むことです。その作品を読む(聴く、見る)前に批評や感想を参考にすることは滅多にありません。例外は、その人の書いている感想や批評をいくつか読んだうえで、この人が褒めているなら読んでみようかな、と思うケースです。そのような切欠を与えてくれる場所として、私ははてなのISBNのリンクページ(正式名称わからないのですが)や雑誌の書評ページ*1をとても重宝しています。
しかし、アマゾンのレビューなどのオープンな場所で、複数の人の意見を目にしてから購入するかどうかを決める人も多いと思います。そして、作品を読む前の段階に酷評を目にして、購入することをやめる人もいるでしょう。賛否両論あればまた違うかもしれませんが、否定意見ばかりだったら、やめとこうかなと思うのも自然だと思います。さらにその意見だけを鵜呑みにして「○○って最低らしいよ」という根拠の無い酷評の連鎖にも繋がりかねません。つまり、酷評というものは、時に不特定多数の他者とその作品との出会いを奪うものとなりうるということです。それはもったいない、と思います。
自分がその作品について知った後ならば、酷評も論の1つとして楽しむことができるでしょう。*2むしろ賛否両論あったほうが興味深いくらいです。

受け取り手として思うこと

私は酷評というとTVブロスの映画ページにあるコラム(というか対談)「新・試写室に火をつけろ」を思いだすのですが、ここはもう、そのコーナーのキャラクターが出来上がっている感もあるので、言い過ぎだな、と思うことも多いですが、だいたいは罵倒していようが酷評していようがそういうエンタテインメントなんだろうなと思うことができます。あとまたちょっと違うけど、oasisのリアムは毒舌で知られていて、彼が酷評したからって、相手方のバンドが損なわれるわけではなく、ファンもあれは一種の芸だと認識しているっていうケースもある。これもまた前述した「バックグラウンド」の一種だと思っています。
つまり、私は個人のサイトやブログや日記などの、その人の背景やキャラクターがうかがえる場所でなら、酷評にしろ賛美にしろ、参考にしたいと思っています。受け取り手として、賛の場合も否の場合も、その意見がどのような場所から来ているのかを知ろうとすることが大切だと思うのです。
だからこそ、どのような立ち位置から発されたかわからない匿名の酷評については、信頼するに足るものだとは言えないような気がしますし、その匿名の意見に流される人たちの存在を考えると、残念な気持ちになりますし、悲しいです。

ものを作る側の人のこと

作品に対して「これはひどいよ」と思うことは私にもあります。ここに書いていることだって、けなしているととられて当然の文章もありますし、これからもあるでしょう。
ただ、私は「ものをつくりあげることが出来る人」を尊敬しています。ゼロから作品を作り上げ、完成させるということはそれだけでたいへんなことです。もちろん周囲になにを言われようが構わない、というタフな人もいるでしょう。しかし、周囲から何を言われるか、だけでも怖いのに、世に出して、どこで何を言われるかということを、気にしたくなくても気になってしまう人もいます。そして、目にしたものが、酷評だったとしたら、それはもう自らの存在意義に関わるほどのショックであることもあるのです。
しかしdkさんの文章にあった「黙殺」はもしかしたら1番辛いことなんじゃないかとも思います。だって、ものを作って、世の中に出すっていう作業は、それを誰かに見てもらいたい気持ちがあるからなんだし(例外もあるかもしれないけど)、そこらじゅうの人を捕まえて感想聴きたくなるくらいの衝動だってあると思う。ニック・ドレイクだってゴッホだって、評価されたくて仕方なかったひとたちだ。黙殺なんて、それこそ井戸の中でひとりぼっちでいるみたいだろう*3。私は酷評が誰かを殺すことだってあるように、たった1人の共感が誰かを救うことだってあると思う。

理由

私自身は手放しの酷評はするべきではないと思っているし、どんなに「好きじゃない」と思っても、出来る限り良いと思える点も挙げたいと思っています。そして、出来る限り、良くない、好きじゃないと思う理由についても言及しておこうと考えています。それを言葉にすることで、「こいつなにもわかってないで書いてるじゃん」と思う人もいるだろうし、むしろそう思って欲しい。そして好きな人の好きな理由についても聞いてみたい。
それで良い面に気付くことができたら、そんな幸運なことはないと思うんです。第一印象悪いけど、話してみたら案外良い人だった、という瞬間のほうが、はじめから好きだったものより印象に残ることだってあると思うし。
論点がかなりずれてしまいましたが、私が1番問題だと思うのは、その内容を知ろうともせずに、理由も無く嫌悪することだと思う。理由のある「嫌い」なら、私が作り手の立場だったとしても聞いてみたいと思うだろう。もちろんこわいけれど。
 *
なんかまとまってなくてごめんなさい。

*1:この場合は知らない批評家が書いていたとしても、いくつかの作品が併記されていることがほとんどなので

*2:例えば、「とても人気のある有名なもの」が否定されているのを目にするケースなどもその1つだと思います。

*3:全くのゼロっていうのはなかなかないかもしれないけど