「アメリカの鱒釣り」/リチャード・ブローティガン

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)

文庫版が出た(だいぶ前ですが)ので再読しました。
ブローティガンの文章を読んでいると、とても気持ちがいい。とくにこの本で「アメリカの鱒釣り」にまつわる様々な風景がスライドのように映し出されていく様には、文章でありながら、1つのただそこにあるものに触れるような感覚を覚える。
その背景に、様々な意味合いを読み取ることはもちろん可能なのだけど、ブローティガンの紬ぐ、まるで流れる小川の中できらめく虹鱒の鱗のような、その言葉に耳を傾けているのが、とにかく心地よくて、それだけでこの本はここまで愛されているのじゃないかと思ったりする。
さらに付け加えるならば、ブローティガンがここで何を言わんとしているかを読み取ることよりも、この風景のスライドから、読者がなにをイメージするのかということのほうが、よっぽど大事なんじゃないだろうか、なんて。
「永劫通りの鱒釣り」の末尾に添えられたアロンゾ・ヘイゲンによるささやかな〈アメリカの鱒釣り墓碑名〉は何度読んでもすてきだ。それから「クリーヴランド建造物取り壊し会社」での、切り売りされる小川。それはちょっとぞっとしない光景ではあるのだけど、同時にその小川へ手を差し入れてみたいと欲望に駆られたりもするし、その光景を、例えば折り畳まれ、埃を被った滝などを、想像するのはとても楽しい。
訳者である藤本和子さんのあとがき、そして文庫版あとがきも素晴らしいです。柴田元幸さんによる解説の言葉「カッコいいなー」にも諸手をあげて共感してしまう。
余談ですが、

『アメリカの鱒釣り』では、多くの死や、墓場が語られる。終末的なイメージにあふれている。ところが、作品は全体としては終末的な感じを与えない。p240

という藤本さんのあとがきを読んで、ふとキセルの「ピクニック」という曲を思いだした。この曲の中には

電車の窓は1つの映画のようで/小さな墓地に男が/ランチを食べていた/お墓でランチを食べながら/何を話しているのかな
キセル『ピクニック』

という歌詞が出てくるのだけど、これはもしかして、とてもブローティガン的なんじゃないかなんて、読み終えて暫く考えてた。

ピクニック

ピクニック