夏


19時、新宿。焼き肉を食べに行く。大きなくしゃみが聞こえて、振り返ると美しい異国の男の人が「ゴメンナサイ」と会釈して、私の目をじっと見る。新宿にはたくさんの人がいる。見とれる私の横で、友達の声が今すれ違った人が、アイドルの人だったと言うが、その名前をきいても、彼が10代だった頃の顔しか思い出せないでいて、それを確認しようと振り返ると、あの異国の人はまだ立ち止まって鼻をかんでいた。チェックのシャツを無造作にチノパンにたくし込んだその細い腰が心もとない。
19時半、歌舞伎町。焼き肉屋に入る。他愛もない話で笑い転げる。ビールを飲み、マッコリを飲む。どぶろく、という言葉の由来を考えながら、初めてマッコリを飲んだのは、もう一年近く前のことだったと思い出す。彼の顔がもう思い出せない。人の顔を覚えるのが苦手な私は、彼の顔を思い出す方法として、その太いまゆげからイメージするという方法をあみ出したのだけど、それすらもう効力がない。おぼろげなおでこの印象が目の前をちらついて、私はふと手を挙げる。うすピンクのマニキュアをしていたあの日、私の手を、あの人は見ただろうか。はじめて握手をしたときの感触の方がよっぽど鮮明で、でもそれは何か違うと思う。
22時、歌舞伎町。コーヒーを飲みにいく。数えきれないほどの回数その前を通り過ぎたのだろうけれど、意識することすらなかった道路を渡って向こう側の店は、扉を開けると驚くほど広く、清潔だった。女の子たちの制服がストイックでかわいらしく、これからはきっと、新宿に来るたびにこの店にくると勝手に誓う。黒いスカートと白いエプロン。人の歩幅は右足と左足で違うので、障害物のない場所を歩き続けるといつのまにか円を描いているという話を聞いて、いつもなら恐ろしいと思うところなのに、それもいいかもしれない、と感じる。砂漠に行きたい。
23時15分、新宿。話したりないので、喫茶店をはしごする。バーベキューをしよう、という話になって、数年前、多摩川のかわらで七輪を囲んだ時のことを思い出す。今度はちゃんとしたのをしようと言う。
0時、新宿駅。またねと言ってさよならする。電車に乗って、電車を降りて、気持ちがいいので歩いて坂道を下る。「There's Never Enough Time」を毎日聴いている。皮膚の下をなでるような音がくすぐったい。「in due time」がそのうちに、という意味だというのはこの曲で初めて知った。道路の真ん中でヘッドフォンをはずすと、右も左もずうっと真っ暗で音がない。ジジ、と街灯のうなり声が漏れて振り返ったとき、これは夏だ、と知った。この夏にはあえるだろうか。誰に、と問う声に、そのうちにね、と答える。