いじめが「なくなる」なんてことはないとしても

いじめ関連のニュースを見聞きしていたら、自分が子供だった頃のことをいろいろ思い出した。
まず、「いじめ」が集団の中の集団が個人を攻撃すること、だとすれば、それは残念なことではあるけれど、人が集まれば高い確率でおこることなのだと思う。いじめが完全に「なくなる」なんてことは、たぶんありえないし、それは全ての人にとって幸せな世界なんてものが実現できないのと同じこと、だと思う。目指すべき理想だとしても。
ただ、自分が相対している状況だったら、それを変えるために、対処する方法はあるんじゃないかとも思う。それがいじめなのかどうかを最初に判断する権利があるのは、その状況にいる「自分」だし、だからこそ周囲が気付くこと/気付いたとしてもそこに関わることは難しい。

私が通っていた小学校では、いじめはある特定の(学校内の半数以上を占めていた団地組女子内での)ローテーションだった。なんていうか、それは団地という学校以外の場での同調圧力みたいなものに由来していた。それは、伝染していくもので、いじめられる側も数カ月後にはいじめる側にまわっていたりした。ある意味、平和だったのかもしれない。や、ほかにもあったのかもしれないけど、気付かなかった。「その他」組の私は、そもそもかやの外だった。
とにかく、その伝染してく感じが、私には無気味だった。時々巻き込まれることもあって、私も集団無視とかされたことがあったけど、自分がむかついてるわけでもないのに、攻撃できる/する気になってしまう「集団」っていうのが、ほんと不思議で仕方なかった。個人個人が「同調しないと自分がいじめられるから」って思ってるのは、わからなくもないけど、集団になると、手に負えない。
とはいえ私だって、計算して動くことも多いし、同調したり空気読んだりも、する。差別してることだってあると思う。でもそれが自分の判断だということは、忘れないようにしたい。喧嘩するなら自分がむかついたときだけにしたい。それより折角興味をもって、関わろうとするなら、もっと楽しいほうがいいと思う。
で、なんか話がずれたけど、いじめがなくなる方法なんてないにしても、今いる社会っていうのは、全部じゃないんだということ、善悪、強弱というのは常に一定のバランスを保っているわけではないんだということに、気付くことができれば、ある程度のことは乗り切れるというか、気にならなくなるんじゃないかなと思う。いじめる側にとっても。
……甘いか。でもある程度の無関心さ、鈍感さ、利己主義、というものが、社会における自分自身の居心地を良くしてあげることにつながることも、あると思う。

しかし文科省が「いじめによる自殺は過去七年間0」と発表してる*1のはすごいなと思った。この日に触れた記事(id:ichinics:20060602:p1/ここでリンクしてる記事はもう消えてるけど)だと警察庁の発表した「学校問題での自殺」は昨年233人だったとある。学校問題か。