いつか王子駅で/堀江敏幸

いつか王子駅で (新潮文庫)

いつか王子駅で (新潮文庫)

タカエノカオリエリモジョージキタノカチドキ…、耳慣れない「名馬」の名前が並び、それに導かれるようにして「残菊抄」から再び「菊花賞」へ。例えばそんなゆきつ戻りつをたどりながら、しかし私はそこに出てくる名詞のほとんどを知らないでいるのに、不思議と知らないということに戸惑いもなく、読み進めることができるのは、堀江さんの文章が心地よく目に馴染むからなのだと思う。
主人公の目線がたどるのは、王子駅尾久駅、荒川線の沿線で、あの辺りにはほとんどいったことがない私も、たぶんあのもんじゃ屋、それからあのあらかわ遊園が登場する下りでは、まるでその場にいるかのように、ゆっくりとまばたきをして、一日のゆっくりとした流れを感じている。
だからこの小説は、本を閉じた後も肌に触れている。この主人公のように生活したいと思うし、たとえ知らない名詞ばかりだとしても、私はきっとまた回遊魚のようにそこへ戻り、彼の話に相づちをうつだろう。