規則を知らないゲーム

「定義される」ことに抵抗したい、という気持ちもまた、どこかで身につけた『振る舞い』である、という方向から考えると、そもそも自分自身にだって「自らを定義する」なんてことはできないよなってことになるけど、だとしても、身体的な感覚として、心地よい/心地悪いは、歴然とあり、その感覚こそを理由として、個人などおかまいなしに定義する「社会」*1と相対している。

内田樹がこの本をはじめあちこちで言っているのは、「自分で自分のことを決定してはいけない」ということではなくて、人は「自分だけで自分のことを決定することなど、(できると思っても)じつはできない」ということだ。そのことに気づくまでには私もずいぶん時間がかかったし、いまでもつい、自己完結の方向にいってしまう。というのも、そのほうが楽だからだ。でも、そのツケはたまっていく。
(略)
生きているだけで、人がそこで囚人になってしまうような場所のことを、「社会」とは呼べないだろう。私は人にツケをまわしたことも、ツケをまわされたことも幾度もあるけれど、いつか帳尻が合うなら、べつにそれでもいいと思っている。(略*2絲山秋子の『エスケイプ・アブセント』について書いたけど、絲山さんの話はまさに、自分のことのように思いながら読んだ。中年になっても「革命」(=理想)というオブセッションから自由になれない、主人公の中年男・正臣が背負い込んだ(と思いこんでいる)「魂の借金」は、それでもないよりあったほうがいいと思うのだ。借金があることで、結果的に「魂」の根拠が示されるからだ。
【海難記】wrecked on the sea - 消費としての労働

ここで「この本」、と書かれているのは、内田樹『下流志向』のことだ。私は読んでいないので、ニュアンスがつかみづらいのだけど、同じエントリ内に(内田樹の言っていることをおおまかにまとめると、という文脈で)「自己決定フェティシズムが間違っているのは、人はあらかじめ「ゲームの規則を」知悉してからゲームに参入することができるし、できるならそうしたほうがよい、という「幻想」にもとづいているからだ」と書いてある。
ゲームの規則を予め身に付けておくことなどできない。なので「できるならそうしたほうがよい」というのは幻想/錯覚/思い込みである ―― というのは確かにその通りだと思う。
「自分だけで」自分のことが決定できない、ということを知ることは、自分が相対していると思っていた「社会」に、自分もまた「既に」属しているのだということを知ることでもある。ゲームに参加するかどうか迷ってるつもりだったのに、とっくにそれははじまってて、ただ出遅れてるだけだった! って具合に。
でも、そのゲームでどう振る舞うかは、自分の(自由なものではないにしろ)意志に基づくはずだし、むしろ、それしかできないのではないか。それでツケがたまっていくとしたら、それはルールからどのくらい逸脱しているかっていうこと、もしくは、すべきことをどのくらい無視したかということ、によるのかもしれなくて、そこの覚悟は必要だと思うけど、無自覚でいるのもまた個々の振る舞いなのではないか。と考えるのはやはり「自己決定フェティシズム」なのだろうか?

魂の根拠

上記エントリに書かれている『「魂」の根拠』という語には(絲山さんの小説のそれよりも)「存在理由」の意味合いが強いように感じる。そして「存在理由」ってもしかして、「自分」を言語として配置すること、つまり意味づけるということなんじゃないかと思う。
しかし、存在理由を実感したいのなら、「仕事」をするべきだ。という論法がでてくると、それこそ「社会に属す自分には生きる「責任がある」」という幻想なのではないだろうか、と感じる。
ゲームに参加した者として、果たさなければいけない責任を「借金」ということができたとしても、それを「魂の根拠」として必要とするのは、あまりにもナイーブなことのように思う。

人間の生命というのは不思議なもんで、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬというほど人間は強くないです。というのは人間はなにか理想なり、なにかのためということを考えているので、生きるのも、自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると死ぬのも何かのためということが必ずでてくる。それが昔言われた大義というものです。
http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20060723/p1

例えばこの三島由紀夫のインタビューを読んで(聞いて)、その切実さに胸をうたれはしても、共感はできない感じに似ている。
が、それは仕事をはじめとして「社会の中での位置/責任/役割/定義?」を「存在理由」にするということに、抵抗したい私の思考癖みたいなものがあるからで、「魂の根拠」的ななにか、を必要とすること自体には納得している。それは重力みたいなもので、根拠がなくなれば解散だ。ただし、私の生の「意味」なんて、私の知ったことじゃないもんねってのは、かわらない。
人生はゲームだ、としても、その意味は、私にしかわからない。なぜなら、場を共有してはいても、プレイヤーは1人だから、ってまた戻ってきちゃったかな。

参考

ところで、「【海難記】wrecked on the sea - 消費としての労働」の内容の中心は、消費としての労働についてだったのに、ちっともそこには触れなかったのは、その辺不勉強でよくわからなかったからです。
でも、その言葉を読んで、思い出したのが「13歳のハローワーク」で(というのはたまたまなんだけど)、「極東ブログ」のこちらの文章を読んだらまさにそのことが書いてあり、なんとなくいくつかのひっかかりを補えたような気がする。

それでも、それまでの自分というのはもう死んでもしかたねぇな、と空を仰いでゼロから生き始めるといいと思う。赤手空拳で社会にたてついて、ぼこぼこにされながら、生きるという「礼」を知る、というか、そこではじめて「礼」が意味を持つと知るものだ。礼を知れば、五体満足ならいつの時代でも仕事はあるものだ(五体満足でなくても仕事はあるべきだが限定される)。所詮人間の社会などもたれ合って成り立っているのだ。
極東ブログ - 世の中の仕事ということ

*1:それは錯覚かも、とか言い出すと迷うので、とりあえず

*2:東京新聞に掲載された書評のこと。今日、と書いてあるので1/28かな