ゲームとしての私

人生を何かに喩えるとき、「ゲーム」という比喩はわりと一般的なように思うけれど、そこに暗喩されているものは共通していないのではないかと思う。例えばそれを「遊び/フィクション」ととらえるのか「ルール」ととらえるかで、意味合いは大きく異なるだろう。
それでも、その多くは、人生の「意味」を軽くするために「しょせん」ゲームだと言わせる意味合いで使われることが多いだろうし、そう考えることが人を楽にすることも、あるかもしれない。

もちろん、論理や理性は、ゲームから出られる。
だから、人生はゲームだと「考える」ことができる。
でも、情動や直感や無意識は、ゲームから出られない。
だから、どんなに人生はゲームだと「考え」ようとしても、人生はゲームじゃないと「感じ」てしまう。
http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/./fromdusktildawn/20060719/1153306583

fromdusktildawnさんのこの文を読んで、納得するとともに、それこそが(私の思う)ゲーム的だと私は思った。
前に書いた文(id:ichinics:20051221:p2)で、私は『長年自分という人間と付きあってみても、どうもこううまく自分を扱えないところがあって、そういう時にふと、RPGを現実でやっているような不自由さを感じたりすることがある』と書いたのだけど、そこで言いたかったのは、要するにリセットもロードもできない環境でそれをするということは、ここまで育ててしまった「私」を今後もプレイし続けなければならないということで、私はそれを不自由に感じる、ということなのだった。
私は「私」が直面する選択肢を選べない。そして選んでしまった後に「あっちのがよかったかなぁ」と思ったりする。しかし私には「私」しかいないので、間違いかもしれない選択肢をそのまま進まなければならない。私には「私」が進むべき「より良い」道が見えることもあるけれど「私」はそううまく成長してなくて選択肢自体が出現しないこともある。
どんなゲームだよ、と思うけど、それが私のイメージする「不自由なRPG」だ。
そしてその不自由さの多くは「感情」に起因している。恥ずかしい、面倒くさい、悲しい、例えばそんな感情によって、目の前に見えている何かを経験できなかったとき、私は「私」を不自由だと感じる。なんでこの「私」なんだろう、と思う。しかし「私」のことを考えてあげられるのは私しかいないので、とりあえず、これまで育ってきた「私」の偶然の選択を、肯定しようと考える。

しかしもちろん、このゲームは不自由なばかりではない。例えば、私の意志と「私」の行動が一致したとき(それは多くの場合「意志」の方が後にくる)、もしくは「私」の行動が私の予期していなかった「よいもの」を見せてくれた時、私は「この人生で良かった」なんてことすら思わずに、その時を存分に味わうことができる。
何が価値か、それは私の意志(というか経験則?)が決めることだけど、それは少し考えてみればすぐに「このゲームの意味」というところへたどり着いてしまう。危険だとわかっていながら、つい窓の外を覗き込んでしまった私は、これまで支配したいと考えていた「私」こそがほとんど唯一の意味だったと知る。
しかし「よいもの」はいつだって「私」からやってくる。そして、意志がそれに価値判断をくだそうとすることすら鼻でわらってしまえるような充足は、いつだって更新される可能性を残している。素晴らしいことに。
そして私は、私もまた「私」を頼りに生きているということを知り、ゲームの内と外に居ながらにして手を繋ぐ。

つまり「私」は私の希望だ。なんて、そんなふうに考えた方がこのゲームも楽しめるんじゃないのって、今のところは思う。
根拠がゆるゆるなので、つい「私」を不自由に感じたりすることもあるけれど、そんなときに私が頼るものの一つが、音楽なんだと思う。頭でなくて音に動かされている自分に気付くとき、毛穴から入り込んだ音が全身を駆け巡って言葉でなく色だけが見えるように思う時。「私」が私から逃れてイメージを泳ぐ瞬間を快楽だと感じ、改めて手を繋ぐ場を作ってくれる。
そんな音楽が、このゲームのサウンドトラックになっている。

と、改めて考えてみたら、そのゲームこそがこの前読んだ『「私」のための現代思想』(id:ichinics:20060710:p1)で書かれていた「物語」なのかもしれない。
でも、このゲームという喩えは、私の思い描いている「物語」であるという側面以外に、私そのものだというイメージがある。さっきゲームの内と外、と書いたけど、外というよりは輪郭って言葉のが近い。
なんて書きながら、私はまだ、私と「私」を明確に分ける言葉を持ってないんだけど、それはなんだろな、客観と感情、みたいな感じです。ああ、ばかっぽい言い方だ。