エモさについて

ときどき、日記を書きながら、自分エモいなと思うことがあります。
エモ、という言葉を最初に聞いたのはロモロックとかエモコア、って音楽ジャンルとしての文脈で、確かシンプルプランの国内盤プロモーションでは、すでにエモエモと煽られていたように記憶している。それがたぶん5、6年前。で、ああエモというのはエモーショナルなってことね、と感情的全般に了解していたのだけど、去年くらいから、またちらほら「エモい」という言葉を見るようになって、印象が少し変わった。
つまり「エモい」と形容される場合、そのエモの語源は同じ emotional 、でも、どこか否定的な要素が加わるっぽい。なんというか、ちょっとメタ視点が入った感じになるのはなんでなんだろう?
で、最近はファッションにも「エモ」ジャンルがあるそうです。

ザイーガ:【MOVIE】エモ(EMO)になる方法

この記事を読んだ後、図書館で調べものしてたとき、たまたまこんな記事を見つけた(で、仕事中なのにメモった)。確か、イギリスの最近の若者事情みたいなコラムだったと思う。

ミドルクラスの若者のファッションに「エモ」が新たに登場した。(略)男性はストレートのダークヘアーで片目だけを覆う。黒ぶち眼鏡をかけるキーホルダーをアクセサリー代わりにし、子どものころはやったスローガン入りTシャツの上に小さめのセーターを着る。女性はブロンドの髪なら黒に染め、ヘアーバンド、銀のネックレス、ストライプのシャツ、黒か紺のデニムジーンズ、カラフルなソックスにスニーカーが基本だ。
恋人にふられてひとりぼっちで悲しい、誰も理解してくれないなどといった悲観的な失恋の歌を聞き、人生をはかなむポーズをとる。学校でも仲間から離れて校庭の片隅で、ひとりで感傷にふけっている。自殺志願でリストカットなどの自傷行為をする。
「教育医事新聞」2006年12/25

服装の部分は普通じゃん、と思うけど、「人生をはかなむポーズをとる」ってどういうことなんだろう。ポーズって自覚してるなら、小学生の女の子とかが悲劇のヒロイン気分を楽しむ感じと似たようなものかと思うけど、そんなポーズやファッションだけで群れから離れてひとりで感傷にふけったり自傷したりする……かなぁ? ちょっと信じがたい。
ビジュアルで思い描くのは多田由美さんの漫画の主人公とかかな。

Sittin’ in the balcony―長編+イラスト集

Sittin’ in the balcony―長編+イラスト集

でもこれで「エモい」という語感がそういう、いわゆる「ポーズ」つまり演技として定着するのはなんかやっぱ惜しい気がする。
エモ《Emotional 》自体に演技のイメージがつくと、感情的であること、感情をあらわにすること、を、演技、と捉えだしそうに思えるし、感情を「振る舞い」としてとらえだすと、ややこしすぎる(仮にそれが正しいにしても)。
けど、「泣ける」ブームとかきたあとは、簡単にエモ批判とかに流れる感じが想像つくし、それは、「エモ」という言葉に関わらずあり得そうなことで。(そう考えると実は多くの人は、自由意志で感情を動かしている/動かせると、考えてるのかもなぁ)
ともかく。もし「エモい」という言葉が、単に、こう「グッときた」とか「泣ける」とか「笑える」とか「おもしろい!」とか、そういうのひっくるめて表現するような言葉だったら、「キモい」並みに普及した/するんじゃないのって感じも、してるんだけど。
なんて、いろいろ考えてみましたが、結局は、自分自身のエモさについて、どう扱ったらいいだろうか…という話のような気もします。