「洗礼」それから「ヘルタースケルター」

【結末に触れています】
楳図かずおの『洗礼』をはじめて読んだのは、たしか中学生の頃だった。すごく面白くて一気に読んだ。でも、どうしても納得のいかない部分があり、ずっとひっかかっていたもいた。
そのひっかかりは、今回再読してみても消えなかったのだけど、そのうちのひとつは、「これは、さくらの物語ではなく、やはりいずみの物語なのではないか」ということだった。以下の感想はこれを前提に書いてます。

洗礼 (4) (小学館文庫)

洗礼 (4) (小学館文庫)

楳図かずお作品の面白さは、「恐怖」を人間の内側にあるものとして描いたことにあると思う。自分の中に、自分の知らないものが存在する。恐怖と憧れがないまぜになった感覚。
『洗礼』で描かれるのは、かつて「永遠の聖少女」とうたわれた女優、若草いずみが、その美に執着するあまり、自らの娘、さくらの身体に自分の脳を移植する、という計画を実行する狂気の物語だ。その手術は1巻の冒頭で繰り広げられるんだけど、ほんとーに恐ろしい。計画を察知し、正しいことを訴えても狂人とみなされてしまう歯痒さは、後に「いずみ」によって夫を奪われそうになる和代が体験する恐怖でもある。

脳を移植されれば「さくら」は「いずみ」なのか? という点は、この作品最大の焦点でもあるし、人がその人である由来は「脳」にあるのか、という問題もとても興味深い。けれどこの作品の中で、強烈な印象を残すのは、やはり「いずみ」の美への執着だ。自分が脳だけになってもかまわないから、美しい「体」に入りたいという執着はすでに狂気だ、と感じるけれど、娘とはいえ、他人は他人なのだから、それは自分という存在を外見以外にあると見なしていることにならないだろうか?

わたし あなたのためにうんときれいになるわ!
あなたに恥ずかしいおもいをさせない人になるわ!
そしてうそをつかないすなおなやさしい人になります!
『洗礼』3巻p23

想いを寄せる谷川先生を夫にするために、その妻を陥れ、クラスメイト殺害を企てた末に言う、この台詞! この場面であさっての方向を向いている「さくら」の奇妙さが恐ろしい。

岡崎京子ヘルタースケルター』は、「みじめで貧しくみにくかった」娘が、ママによって見いだされ、全身整形をして美しいモデル「りりこ」となる、という設定からしても、『洗礼』をモチーフに描かれた作品だったのではないかと思う。あざの現れる位置も同じだ。

そう つまり りりこはママの「反復」もしくは
レプリカントだったのである。
ヘルタースケルター』p146

ヘルタースケルター』は、移ろいやすい消費社会に消費されないために、りりこがその保ちがたい美しさを抱えながら、それを唯一の武器と信じてサバイブしようと試みるお話だ。岡崎京子作品の中では、混沌としてまとまりのないものだと感じるけれど、「りりこ」はりりことして必要とされるために、自らの美しさを必要としている、という点の描き方は一貫している。しかし、「いずみ」はどうだろう?
ここが私の『洗礼』に対するもうひとつの「ひっかかり」だった。
「美」への執着ゆえに、娘を犠牲にまでしたのに「あなたのためにきれいになるわ!」と、あっさりその価値の由来を他者にゆだね、最終的には谷川先生の妻と脳を交換しようとするその行き当たりばったりな感覚に、私は混乱してしまう。
いずみは「美しさ」を「私にとって一番大切なもの」といっていることから、脳の入れ替えを計画する動機の時点では、何より自分自身であるために、美しさを保とうとしていたのだと思う。それが谷川先生のためになってしまうということは、やはりいずみはいずみではなかったのだろうか。それとも、理由がないからこそ、狂気であるということなのか。やっぱりわからない。

ただ、これは単に時代背景が異なることによるのかもしれない、とも思う。『ヘルタースケルター』は明らかに90年代の「消費社会」を描いたもので、「りりこ」は社会に忘れられることを恐れていた。しかし、「洗礼」が描かれた70年代にリアルだったのはむしろ「特定の他者」を繋ぎとめるための美だったのかもしれない。
しかしその美を保つために他者を陥れていくという点で彼女たちの行動には共通するものがある。そこまで人を狂気に走らせる「美」とは何なのか。

みんな何でもどんどん忘れてゆき
ただ欲望だけがかわらずあり そこを通りすぎる
名前だけが変わっていった
ヘルタースケルター』p309

ヘルタースケルター (Feelコミックス)

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