絶対の愛

ichinics2007-03-25
監督:キム・ギドク
主人公、セヒは付き合いはじめて2年経つ恋人、ジウに飽きられてしまうのではないかという不安に苛まれている。「毎日同じ顔でごめんね」と呟きシーツで顔を隠すセヒ。そして彼女は姿を消し、別人「スェヒ」となってジウの元へ戻ってくる。
この映画はその視点の変化から、第一部と第二部に分けられる*1。恋人に「飽きられたくない」という一心でセヒはもともと美しい姿を整形し別人となる。そして元恋人ジウはまんまと新しいセヒ「スェヒ」の策略にはまり、彼女と恋仲になるのだけれど、彼は姿を消したセヒのことも忘れられないでいる。セヒにとっては、それもこれも「自分」であり、自分ではない。ここまでが第一部。そして第二部では、ジウに愛されたい、ジウを繋ぎ止めたい、という気持ちの暴走ゆえに、自らを見失い、ついには愛していたはずのジウすら見失うセヒの姿が描かれる。
ここで浮かび上がるのは、セヒの、そしてジウの愛していた相手は「誰」なのかということ。そして「愛している」ということ、つまり誰かを、自分を、その他の人々と「区別する」とはどういうことなのかという疑問だ。
人が「飽きる」生き物であるという前提では、「飽きられたくない」という欲望と、「(他と)区別してほしい」という欲望は同時にかなえられないのかもしれない。ちなみに、この問題をイーガン流に試してみたものが「ひとりっ子」(id:ichinics:20070220:p2)に収録されている『真心』もしくは『ふたりの距離』ではないかと思う。「飽きる」をクリアしても、「区別する(互いを理解する)」ということをクリアしても、永遠の愛なんてないし、あったとしても、それはまた別の苦悩に変化するだけだ。
そして映画は無限地獄の輪が重なったところで終わる。
ホラー少女漫画のような、無気味さを煮詰めてファンタジーになったようなキム・ギドク流の恋愛映画。その濃厚さに膨満感を感じつつも堪能しました。
以下に続きます。

*1:そういえば「サマリア」(id:ichinics:20050424:p3)もそうだった