昔話/注射とウシガエル

先日、健康診断で採血をされている最中、ふと小学生の頃の予防接種で、稲田さん(仮)が脱走したしたことを思い出した。

たぶん2、3年生の頃だったと思う。インフルエンザだか日本脳炎だか、とにかく「予防接種」のある日で、そでのまくりやすい服を着てくるようにと言われていた。
何時間目かの授業の途中に私たちのクラスの順番がやってくると、先生はお医者さんのいる部屋へ向かうために、教室を出て廊下に並ぶように言った。そのとき、唐突に立ち上がったのが稲田さんだった。特に仲がよいわけでもなかったけれど、自由帳に手書きドラクエの攻略本を書いていたのを見せてもらったことがある。
その稲田さんは、立ち上がるとまだ席についている他の生徒をかきわけるように教室の後ろへと走り、道具箱の棚の上におかれた水槽 (ウシガエルのオタマジャクシを飼っていた。ちょっときもちわるかった) を掴んで引きずり下ろし、そのまま教室を飛び出して1階の女子トイレにこもり窓から脱走して家に帰ってしまったのだった。水槽は割れなかったけれど、ゴッとにぶい音をたてて転がり、床には水たまりができ砂利がばらまかれた。ウシガエルのオタマジャクシは誰かが拾ったのだろうか。閉じたトイレの前で先生が稲田さんを呼んでいる様子を覚えている気もするけれど、たぶん残りの生徒は予定通り、予防接種を受けたのだと思う。
でもとにかく、その後は稲田さんすげえ、という話題でもちきりで、当時の同級生に会えば、未だにその話が出るくらいだ。あんまり何回も思い出したので、水槽が落ちる瞬間とか廊下を走る稲田さんは、まるで映画の重要な場面みたいにスローモーションで思い起こされる。
その後、稲田さんはたしか、高学年に上がる頃には転校してしまったのだけど、それまでの予防接種がどうだったのかは知らない。

稲田さんは注射の何がそんなに怖かったのだろうと考えてみても、わたしにはよくわからない。
たまに、血管に空気が入ってしまったらやばいんだっけ…ということを考えたりもするけれど、目で確認できることのほとんどは、そんなにこわくないような気がする。
むしろ私にとっては、稲田さんの唐突な行動や、手のひらほどの大きさもあるウシガエルのオタマジャクシの方がよっぽどこわくて、だから未だに大声出す人やウシガエルのオタマジャクシは苦手なのですけど、まあ怖さもひとそれぞれだよなあ、といってしまえばそれまでです。
ただ結局、目で確認したいと思うのも、怖くて構えてるってだけなのかもなあ、とか考えてるうちに採血は終わり、アルコールを含んだ脱脂綿で右腕を押さえながら私は仕事に戻ったのでした。