人それぞれ

脳は、私の無数の体験や記憶を頼んでもいないのに勝手にリンクしてくれる。それは無闇なリンクではない。私にとって最も適したリンクはどんな形なのかを十分に見きわめる。また、状況の変化に応じてリンクの有無や濃淡を常に更新していく。ただ黙々と。しかもなおさら脳が素晴らしいのは、そうした体験や記憶へのリンクを、ときどき勝手にクリックしてくれることだ。まるで居眠りしている私の肩をたたくように。
http://d.hatena.ne.jp/./tokyocat/20091018#p1

日記を書き続けてみて時々思うのが、この日記全体が私をどの程度表すのだろうということだ。
例えば、私が記憶を失った状態でこの日記を読んだら、これを書いたのが自分だとわかるだろうか。かつての「私」の気持ちを、考え方を、理解することはできるのだろうか。
たぶん、無理だろうなと思う。記憶の無い状態で読む私の日記はもう他人のものだし、他人の気持ちはたとえ想像できたとしても、知ることなどできない。自分のそれが写真だとしたら、人の気持ちは、たぶん似顔絵のようなものなんじゃないか。
しかし、記憶こそが「私」なのか、といえばそれもまた違うだろう。それは上に引用した tokyocat さんの文章にあるような形で、今に作用する材料になるだけだ(たぶん「だけ」だろう)。
ならば、その作用を行う「脳」とは何なのだろうか。
もしも複数の脳にまったく同じ経験を与えたとしたら、同じようにリンクをはるのだろうか? もしそうでないなら、そこにも私の個性のようなものがあるのかもしれない。
そう考えれば、私が今思い出すことも不安に思うことも、個性のひとつであり、これがもし「私以外」の脳であれば、なんということもない/もしくは意識にものぼらないことなのではないか。
きっとその通りなんだろうなと思う。よく言う「人それぞれ」というのは、なにも性格の話だけでなく、足が速いとか絵が上手いとかと同じように、脳がどのように記憶を整理するかというところにもあらわれているのだろう。
つまり「私」というのは何も意識だけから形作られるわけではなくて、そのような不確定要素(脳の働きを計算できるのかどうかは知らない)の上に浮かんでいるものなのではないか。もし、それが不確定でなかったとしても、意識「以外」の要素があることは明らかだ。

なんだかすごく当たり前なことを書いているようだけど、そう考えてみれば「人それぞれ」という言葉の見え方くらいは少し変わるんじゃないかと思った。