- 作者: 山内マリコ
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2012/08/24
- メディア: 単行本
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何かのフリをしていることで、何かになった気分でいる気恥ずかしさとか、読みながら所々でフタをしていた記憶が甦り、やめてーって転がりたくなる部分もありつつ、町で偶然懐かしい人に出くわした後のような気持ちの浮き立つ読後感がどのお話にもありました。きっと今の自分だって遠くなれば気恥ずかしさの塊なのだろうけれど、その時々でこのように切実であったことを思い出す。
物語の舞台は地方都市(作者の地元が富山だということなので富山がモデルなのかもしれません)ということだけど、このような、どこにも行けない息苦しさは自分にも身に覚えがあるし、種類は変わっても今だってたぶんある。
友だちに貸してもらって読んだのだけど、感想を話すのが楽しみです。再読したいので自分でも買おうと思いました。
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特に印象的だったのは、高校生、大学生、卒業後、それぞれの時期における友情の距離感の描き分けでした。
女の子同士の友情は、スパークするようにひとときの蜜月を迎え、静かにフェードアウトしていく。(略)開ききった距離を縮めようと気をつかい合って、共通の話題を探して思い出話がはじまり、「あの頃はよかったね〜」とかやりだす展開が見えて、なんだか気が重い。
「私たちがすごかった栄光の話」p15
なのに結局あかねも、結婚したいだけの月並みな女になって、誰かの妻になった。あんなに完璧にコミットできていたのに、今はこんなにもすれ違っている。
「やがて哀しき女の子」p74
わたしたちはお互いのアイデンティティを補完し合っているような感じで、ふたり一緒でないと全力が出せないし、うまく機能しなかった。
「アメリカ人とリセエンヌ」p143
薫ちゃんがいないからといってすぐさま代わりの友だちを作ろうなんて気にはなれなかった。そんなのってあんまりだ。
「十六歳はセックスの齢」p227
こうやって抜き書きすると、気のせいかもしれないけれど、本の終盤に近づくにつれて「スパークするような蜜月」の時期にかえっていく構成になっているようにも感じます。ともかく、このような温度差が、相反するものではなく一直線上に現れたり消えたり混ざったりしているものとして友情をすくいあげる描き方には、生々しい、でもけして不快ではない手触りがあった。
もちろんこの本は友情についての話だけではなくて、恋、あこがれ、諦念、それぞれの描き方に、自分にもこういう風に感じた瞬間ってあったかもと、頷いてしまう読書だった。
アメリカに帰ってしまった友人の近況をフェイスブックで眺めながら「彼女は連絡をくれるだろうか?」と問いかける主人公の声が、宙に浮いたままなかなか消えない。それを眺め続けることが気まずいのは、その続きを自分は知っているような気がするからで、でもそう思うのはきっと、私のいつかに重ね合わせせているからなんだとも思う。
そういった欠落の見せ方と、でもそれを抱えたまま、人生は続くという覚悟のようなものが、この本を特別なものにしていると思いました。
読んでよかったです